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 緊張しなくて良い。いつも通りに。  初めのころ、何度となく言われた。その度に言葉は逆効果を生み、結局あの人は絵筆を置いて話をすることから始めるのだった。何度も飽きずに、潮の流れや水流を思わせる流暢さと平坦さで。 「おまえはこれまで、わたしのような奴に会ったことはあるのかい。描かれたことは」  姿かたちを描かせて欲しいと言われたことは一度もなかった。 「そう。……どこへ行くのが好き? 温かい海、冷たい海? 沖合? 浅瀬?」  好みはなかった。どこへ行くのも当たり前だった。人間の呼吸と同じだ。 「では、ほんの少しだけ、わたしのところへとどまってくれるかい。姿かたちを変えていくのは構わない、是非そうしてくれ。但し、ここを離れないで欲しい」  形を変えても良いというのはおかしい。描くのならば同じ姿でなければならないだろう。  そう言うと、まるでとても奇妙なことを聞いたかのように、あの人は大きな口を開けて笑った。豪快な笑い方をするものだととても驚いた。 「面白味のないことをするつもりはないのでね。一つとして同じ姿のないおまえを、同じ姿のまま描くから良いんだ。私は、くるくる変わるおまえを描きたい」  訳が分からなかった。しかしあの人が載せる色がひどく好ましいものだったのは事実だ。真昼の太陽光を反射する水面よりも寒い朝の浅い海よりも、日が暮れて星々が顔を出し始めた時分の水平線よりも。見ていて飽きることがなかった。できることなら浸かってみたいと思った。  それを使ってわたしを描くというのだから慌てた。わたしはこんなに美しいもので出来ていない。間違っている。  わたしの幾多の卑下の言葉を、あの人は笑みだけで握り潰した。 「それこそ間違っているよ。少なくともわたしにとってはね。自分が見ているものを唯一とするのは浅はかだ。わたしの色をどうか否定しないでいただきたい。おまえは、これよりずっと美しい」  何が間違いだ、嘘だと否定してもそれすらおかしそうに聞き流されて、わたしは画布の上に露わにされた。  自分が対象物になっていることよりも、あの人が見ている自分が明らかにされることに対する羞恥心があった。あなたの視線を副次的に体験することになるのだ。見られてはいけないところまで隅々と見られているようで、居たたまれなかった。  描かれることに慣れていなかった頃を、そのように思い出しながら。  今や、あなたが腕を休めるひとときを温い日差しと共に味わうのが当たり前になっている。  長時間筆を握っていると腕を痛める。他にも目や腰や肩、とにかく全身が辛いのだと、あの人は言う。 「もっと都合が良いものを描きたいと思えば良かったろうに。室内でも描ける植物など。わたしはここにしか居られないから、特に暑い時期や寒い時期は、あなたの身体に負担をかける」 「何を描きたいかは理屈でないよ。あのとき、描きたいと思ってしまったのがおまえだったのだから」 「では、わたしがあなたに応えなければ違っていた?」 「ああ、そうかもしれないね」  ふと思うことがあった。  変化し続けるものを絵の中に留めたいとする欲望に、他の感情は一切ないのだろうかと。 「今でも、描きたいというのは、描きたいだけ?」  何となくを装って尋ねる。深い意味のない気安い質問でも、投げた途端に重さを得てしまうことがあると知っていた。 「わたしたち、随分長いことこうしているから。人間の人生に換えたら途方もない時間だ。あなたの見た目も変わった。髪は白くなってきたし、脚は細くなった」 「……描くことが日常生活に溶け込んでいると言うと聞こえは良いが。……欲望ではあるのだろうけれど。心を傾ける、とでも言うのかな。熱い、というよりは穏やかな心持ちだ」 「こころ?」  比喩だ。心には重さも温度もましてや形もないと、わたしにも分かる。 「ああ、寄せるよりも傾ける、だね。些細な違いだろうが、私はおまえに心を傾けているよ。自覚がある」 「それは、依存ではなく」  傾ける、と寄りかかる、は似ていると思った。人生の目的がわたしを描くことにのみあるのだとしたら、わたしは寄りかかられていると思うことだろう。  万が一、わたしが居なくなればあの人が萎れてしまうのだとしたら、寄りかかる、は依存に変化する。 「依存なものか。望むのであれば明日からでもおまえと離れられるよ」  本当に? と問う。  厳しいだろうね、と口を大きく開けて笑う。 「こんなにもうつくしいものが傍にいてくれるのに、みすみす手放す奴がいるかい。おまえをうつくしいと思うのは今も昔も変わらないけれどね。おまえからでさえ、依存と言われるのは心外だな。ましてや慰みものにするなんて、ぞっとする」 「ぞっとしてもしなくても、成れるけれど。あなたが可愛がっていた犬の代わりにも」 「嘘を吐くんじゃないよ」 「さあ……」  自分が感情を向けられる相手がいることで気分が晴れたり、非常に満足感を得られたりすることを知っていた。また、感情はその正負に関わらず、相手を傷つけることがあるとも。  あの人がいとおしく思うものを―連れ添ってくれた人も、愛犬も―全て失い、彼らに向けられていた感情の行方はどこなのだろうと、訊けもしないことを。その終着点がわたしであることこそなかれ、と考える。  わたしはあなたの波だ。それ以外の存在には、成り得ない。 「成らなくて良いんだ。おまえが望んでいないのも分かっているし、成ってしまったおまえを、私だってあまり見たいとは思わない。……変化の一つというのであれば別だが、おまえの変化はおまえですら制御できないものだろう。だからきっと、成ったおまえはおまえではないよ」 「わたし以外の何かに成るわたしを、あなたは嫌う?」 「いいや、いいや―それは不正確だね。私の意に沿おうとするおまえは、好ましくないという話さ」  その姿勢は自分の若い頃を思い出させるから、と、珍しく筆を止めた。 「……同じ隊の連中は、他人の意に沿うことを第一として、皆散っていったから。それが、あのときあの場での正解だったと信じていた」  無意識なのか、手の平で片足のふくらはぎに触れていた。鉄の塊は未だその下に埋まっている。 「期待に応えたいと奮起するのは素晴らしいことだが、何事も行き過ぎは毒だよ」 「あなたは違ったの。不誠実だと思われていた?」 「皆とは、この国の愛し方が違っていたのかもしれない。今だから言えることだがね。自分の身を投げうって……なんてやり方は、この年になっても受け入れられない」 「愛し方とは。―愛とは、何」 「感情の一種だよ」 「一般論ではなくて、あなた個人の思想は」 「……畢竟、独り善がりの支配欲だろうね。相手の中にある自分の存在を大きくさせたいと思うこと」 「つまり、愛は所有?」 「少しずれる気がするな。囲いたい……訳では、ないし」 「自由気ままにしていろと。何にも囚われていない姿が好ましいと」 「ううん、どんな姿も好ましくはあるが、しかしわたしだけのものにはなって欲しくはなくて」 「あぁ、もう、はっきりさせて」 「どれも正しいからこそ答えあぐねているんだ」  少し暴れて、足下をばしゃりと濡らしてやった。困っているのはこちらだ。 「持つことでなければ何。触れること? かかわりあうこと? 共有すること? 見つめること?」  重ねるうちに、そのどれもが正解だと言い出すのは明らかだと気づいたので、再度水をかけて口を塞ぐ。 「こら、止めなさい。どうしてそんなに不機嫌になるんだ。ほら、ズボンがびしゃびしゃになってしまった。これは乾きづらいのに。……心を傾けることも愛だろう。わたしはおまえも愛しているよ」 
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