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 待っている。やって来ない完成を待っている。  わたしが画布に縫い止められるのを、じっと待っている。  待つのは得意だ。傍からは不得手に見えるとしても、好きだ。同じものを一点から見つめて分かることは多い。それはきっとあの人が一番よく知っている。動きを止めぬものを紙の上に留めようと試みる、どんなレンズよりも精巧な目を持つあの人が。  プルシアンブルー、と教えてもらった。あの人が好んで使う色だ。他の色を使うことは殆どない。濃淡だけで、驚くほど静かで鮮やかな世界を創り上げるのだ。  その青色だけでわたしの全てを描きたいのだと望みを口にする。なんて傲慢だと言うと、仕方がないと返された。  夢の中でさえも青色に浸っているんだ。おまえと一緒に水中に沈んでいく夢だ。望むことの、どこが傲慢か。  もしかすると浮き上がろうとしているのかもしれない。おまえが引き上げようとしてくれているのかもしれない。いずれにしても、美しい世界だからずっと居たいと思っても、おまえが腕をぐいと引っ張るんだ。早く地上に出たがっているように。  おまえからすれば、夢の中ではそれが普通なのかもしれないね。我々は同じものを見ているようで見ていない。誰ひとりとして。表情や共通する態度や言葉を手掛かりにして、同じものだと了解し合って、共有できている振りをする。  だからおまえが見ているこの青色も、唯一おまえだけが知っている青色なのさ。わたしはおまえの青色を知りたくとも知ることはできないし、反対に、わたしだけの色を教えたくとも教えられない。このもどかしさをおまえは悲しさと捉えるかい。  わたしは、あぁ、悲しいよ。美しいものならば何であれおまえと共有したいと思っているからね。叶わないのは悲しいさ。  あの人は描きながらずっと喋っていた。息をするよりも喋った方が楽なのだと冗談にしていたけれど、同意をせざるを得なかった。  喋る理由が楽な呼吸のためであるならば、絵を描く理由は好奇心のようだった。  自分の世界のさまをうつしだし、自分以外の人間がそれらをどのように受け取るのかを知るのが楽しいのだと。自分の意図は自分が思ったように伝わるのか、それとも全く別のものとして伝わるのか、考えるのが楽しいのだと嘯いていた。  おまえはどうだいと尋ねられたので、そんな楽しみを持っているのはあなただけだと答えた。人間はもっと身勝手で利己的な生き物だろう、自分の意図が伝わらずに歯噛みする生き物だろうと。  しかしあの人は心の底から齟齬を楽しんでいるようだった。理不尽な非難もいわれのない中傷も、あの人にとっては愉快な玩具だった。全く困ったものだねと笑いながら、常に凪いだ態度で筆を走らせていた。  おまえは一瞬として同じ姿でいることはないから、今まで出会った中で最も興味深い。好奇心を掻き立てられる。朝も夜もけれど違った気高さを持っているから、どのおまえが良いか、とは非常にナンセンスな問いだ。掴まえどころがないものこそ描きたくなる。一瞬を永遠にしてみたくなる、自分の意に沿わないものを屈服させたい欲とも似ている。  おまえはわたしを神聖視するところがあるようだけれど、こんなものは俗な欲望でしかないのだよ。全てのものを意のままにできると錯覚した愚かな魔術師の物語を、おまえは聞いたことがあるかい。  あの人の視線が恐ろしく思えたのは一度や二度ではなかった。  人間ではない私のすべてを暴こうとするように。一生その姿を目に焼きつけてやろうとでも言うように。太陽にじかに触れているかのような熱が、痛かった。まるで絶対に離すものかとでもいうような熱は。褪せれば喪失感に呑まれ、痛みを恋しがるほど。  わたしは変わらない。変化の周期を繰り返すだけだ。ひとつの方向に着実に進んでいく、本質的な不可逆性を抱えたあの人とは反対だ。寄せては返す一定の循環の中で、わたしはあの人が望むわたしの姿を探し、変わるような、変われるような気になっている。  あの人の言葉を枷にしたわたしは沖へと流されていかぬよう、戻るべき浜を見失わぬよう、巡り巡られ、今日も馴染んでいく。  わたしは、プルシアンブルーの波だった。
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