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1.新たな住人
桜の蕾も紅く色付き始める頃。
昔住んでいたアパートに、新たな住人がやって来た。
月に一度のアパート訪問中、俺がばあちゃんと話し込んでいると、そこへ遠慮がちに声をかける者がいたのだ。
「あの、今日引越してきた浅倉ですが──」
決して大きくはないが、良く通るいい声に顔を向ければ、緩くウェーブのかかった茶色の髪をツーブロックにした、黒縁メガネの小柄な青年が立っていた。
眼鏡の奥の瞳は黒目勝ちで、薄っすら潤んでいる。年齢は二十歳になったばかりの俺と、どっこいどっこいに見えた。
けれど、なかなかの美青年──なのではないか?
「ああ、浅倉大希さんね。ハイこんにちは。私はここの管理人の佐々木ふくです。よろしくね? お部屋の鍵は孫の昇から受け取ったかしら?」
ばあちゃんこと、ふくはここの管理人だ。
亡きご主人が始めたアパート経営を引き継いだが、如何せん家賃を安く抑えてあるため、そこからの収入はゼロに等しい。
そんなふくを少しでも楽にするため、孫の大学一年生、佐々木昇がアルバイトとして、人が入る時だけ管理業務を手伝い始めたのだ。
一階の一番端っこ。そこが住居兼受付となっていた。アルバイト代は朝昼晩の賄いでと言う事になっている。
以前は俺が手伝っていたけれど、ここを出てしまったため、どうなることかと気をもんでいたのだが、タイミングよく引き受けてくれ助かっている。
「はい。受け取りました。よろしくお願いします…」
ぺこりと頭を下げ、にこりと顔を綻ばせた。美青年の上、中々の爽やか好青年だ。
しかし、ここはかなり年季の入ったアパートで。こんな今どきっぽい男子が入るのには向いていない。
大学生には見えないし。
社会人だろうか。何の仕事をしているのだろう?
そうしていれば、俺の好奇心丸出しの視線に気が付いたのかクスリと笑って。
「俺、二十二才になります。仕事は夜の店で接客業やってます。バーテンやってるんですが、収入が少なくて…」
肩をすくめてみせた。
なるほど。それなら納得だ。ここなら家賃は破格の一万九千円で、かなり安く上がるはず。ただ風呂無しシャワーのみ、洗濯場は共同ではあるが。ちなみにお風呂は、近所の銭湯に行くのが当たり前になっている。
一人納得していれば、浅倉が遠慮勝ちに尋ねて来た。
「あの…、そちらは? ここに住んでるんですか?」
どうやらここの住人と思われたらしい。するとふくはフフっと笑って。
「あら。私のカ・レ・シ。宮本大和ちゃん」
そう言ってふくは嬉しそうに俺と腕を組む。
──イヤ。彼氏って。
すると浅倉はわざとらしく驚いた表情を作り、冗談と分かって乗って来た。
「ああ〜…。ヒモしてるんですか。いやぁ、なかなかですね? 大和さん」
「違うって。分かってンだろ? 浅倉君」
そう言って睨むと。
「なんだ。違うんですか?」
キョトンと不思議そうな顔をする。俺は腕を組むと鼻息荒く浅倉を見返し。
「どう見たって冗談だと思うだろ? ふくさんみたいな奥ゆかしくて、上品で可愛らしい人が俺みたいなガキに興味持つ訳ないっての!」
これは本心だ。どう見ても吊り合うわけがない。
今はこんなうらびれた(ふくさんごめん!)アパートを経営しているが、元は裕福な家のお嬢様だったらしい。それがご主人と駆け落ちし、ここに落ち着いたのだとか。人生いろいろだ。
兎に角、俺と違って育ちがいい。つり合うはずがないのだ。
俺の言葉に浅倉は苦笑し。
「ああ…。そうなんですか? そっちに怒ってるんですか。──いや、宮本さん。なかなかですね。壊れっぷり」
俺は冗談はさて置きと、今度はきちんと真面目な顔になって。
「俺は元住人。今日は遊びに来たんだ。俺のことは大和でいい。呼び捨てでな? 俺も大希って呼んでいいか? 敬語無し」
「うん了解。じゃあ…無しで。でも──大和。可愛いから年上にモテそうだよ?」
「か、可愛いって…」
時々、親しくなった相手からそう人から言われるが、正直、嬉しい評価ではなくて。
けれど、爽やかに笑いながら言う大希に、他意はない様で。怒ることはできない。
いや、岳にはちょいちょい言われてる。
あいつ。不意にそういうこと言うんだよな?
岳に言われるのは、こそばゆいけれど、嫌ではなく。
いつも怒ったふりをするが、照れながらも嬉しかったりするのは、岳の前では乙女な証拠だろうか?
あ〜あ、にしても。今日、岳と来たかったな。岳…。
本当は、急な仕事が入らなければ、今日、一緒にここへ訪れるはずだったのだ。
「…大和?」
しょんぼりすると、大希がどうしたのかと覗き込んで来る。俺は力なく首を振ると。
「なんでもない…」
肩を落としてそう口にした。
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