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1話よみきり
――ぐちゃぐちゃ、ぐちゃあっ、……ぐちゃっ、ぐちゃっ……。
なんともムナクソの悪い音が、頭の中に鳴り響く。ネバっこくて汁気の多い"なにか"を咀嚼するような。そういう音だ。
言い知れぬ恐怖がゾッと押し寄せてきたと同時に、「クシュンッ!」と、ハデなクシャミが出た。
そこで、目が覚めた。
ブルルッと悪寒が背中を走れば、横向きに丸まっていた体が、いっそう固く縮む。
羽根布団を引き寄せようと、まわりを手で探ったが、妙に湿ったシーツの感触しかない。
「なんだよ」と、自分自身への照れ隠しにブツブツとボヤきつつ、オレは、ベッドの上に起き上がった。
足元を照らす常夜灯を頼りにネボケ眼をこらす。
羽根布団は、ベッドのすぐ脇に落っこちて、フローリングの上に無造作に広がっていた。
どうりで、寒気がしたわけだ。
ジョーダンじゃない。タチの悪いハヤリ風邪で世間がピリピリしてるこのご時世に、客の前でうっかりクシャミなんか連発したら、ヘタすりゃ事務所にクレームがいく。
タダでさえ不景気で、タクシーの利用客は減る一方なのに。
たまに遠距離の依頼が入ったと思えば、カーナビにも反映されない、とんでもない山道を延々と走らされるし。
行き先を、なんと言ってたっけ、あの客?
たしか、『獏枕神社』だったか?
あの客もさ、陰気で気味の悪いオッサンだったよな。
ズングリムックリで、どっかのコメディ漫画から抜け出てきたみたいなユーモラスな見た目だったけど。道を指示する以外は、こっちが何を聞いても、ぜんぜん口を開かなかった。
葬式帰りみたいな黒いスーツ着てたしさ。そういや、ちょっと、線香みたいな匂いもしたよな、フワッと。
まあ、早まった考えを起こしそうな感じじゃあ、なかったけど。
おおかた、いわくめいたスポットとかを巡るのが趣味の、オカルト変わり者とかだろう。
鳥居の前で降ろしたとき、なんかオレに向かって、それっぽいこと言ってたもんな。なんだっけ……?
ああ、そうそう、
――今夜は、いったん眠りについたら、絶対に朝まで寝床を離れないほうがいいですよ。
って。意味不明な捨てゼリフを吐かれたんだった。つくづくゲンの悪い客だ。思い出すんじゃなかったぜ。
てか、ヘタすりゃスマホの電波も届かなそうだったけど。帰りはどうしたんだろう、あのオッサン?
夜の10時に、あんな場所にひとりぼっちで。
民家やコンビニどころか、電柱すらも見当たらなかったけどな、あの山道。
こっちだって、ヘッドライトだけを頼りに、森の中に迷い込んじまわないよう、必死にハンドルにしがみついて帰ってきたんだから。
おかげで、身も心もクタクタになって。つい、いつもより寝酒がはかどってしまった。
そりゃあ、寝相も悪くなるってもんだ。
タメ息まじり。フローリングに手を伸ばし、布団をベッドの上に引っぱり上げた。
スットンキョウなオッサンの忠告なんか聞くまでもない。朝まで寝床を抜け出すつもりはサラサラないんだ。オレはハナっから。
卒業シーズンの、しかも週末。せめてもの稼ぎ時なんだ。じゅうぶんに休んで体調を整えておかなきゃならない。
早いところ、また眠りにつきたくて。オレは、そそくさと羽根布団の中にもぐりこもうとした。
そのとき、
――ジャーッ……
と、今度は、水の流れる音が耳に届いた。
寝る前に、歯をみがいた後、洗面所の水道を止め忘れたかも。
仕方なくオレは、再び体を起こし、ベッドを降りた。
フローリングはヒンヤリして、素足にこたえた。春本番とは、まだお世辞にも言えない。
廊下をはさんだ向かい側に、洗面所とバスルームはある。
引き戸はいつも開けっ放しにしているから、中の様子がすぐにうかがえた。
オレみたいに、若いうちからタクシー運転手になりたがる殊勝なヤツは、いまどき珍しい。
おかげで、福利厚生にかけては、そこそこ優遇されているほうで。
社宅も、独身者向けの1Kじゃなく、妻帯者向けの2DKに住まわせてもらっている。
案の定、洗面台の水道の蛇口からは、そこそこのイキオイで水が流れ続けていた。
おまけに、照明も付けっぱなしだ。
いくら水道光熱費は会社持ちだからといったって。これはマズい。
善良な小市民として、なけなしの良心が痛む。
オレは、あわてて洗面所に駆け込み、水道の栓をひねって止めた。
ホッとヒト息つけば、なにげなく目の前の鏡が目に入る。
そして、ギョッとなった。
十人並みの平凡なアラサー男の顔をしたオレの、鼻から下が、真っ赤に濡れているのだ。
たかが鼻血とはいえ、ここまで出血していると、さすがにアセる。
オレは、また水道の栓をひねり、イキオイよく流れ出る水を両手ですくい、バシャバシャと顔を洗った。
すると、お次は、台所の方から、
――パリーン!
と、食器が割れるような音が聞こえてきたのだ。
オレは、ゾッと背筋をこわばらせた。
何者かが、台所に侵入している? 泥棒?
いや待て落ち着け。そういえば、隣の部屋に住んでる先輩ドライバーが、最近ベランダでコッソリ野良猫を餌付けしてるってウワサになってたな。
台所に忍び込まれて食べ物を食い荒らされたなんてグチを、誰かがボヤいてなかったか?
きっと、それだ。その野良猫が、うちの台所にも忍び込んだのに違いない。
クソッ、人間サマをビビらせやがって! 今すぐ首根っこを引っつかんで、追いだしてやる。
オレは、濡れた顔をスウェットのソデで雑にぬぐうと、蛇口の水を、
――ジャーッ……
と、出しっぱなしにしたまま、息を殺して廊下をヒタヒタと歩き、台所に急いだ。
だが、台所はシーンと静まり返っている。
共用通路に面した窓のスリガラスごしに差し込む月明かりを頼りに、見わたした限り、割れた食器のタグイは、カケラひとつ見当たらない。
拍子抜けして、肩を落とした。なにからなにまで調子が狂う。奇妙な晩だ。
着古したスウェットの上下が、ついさっき洗った顔を拭いたソデ以外も、全体的にじっとり湿っている。イヤな汗をかきまくったせいだ。
そう意識したとたん、猛烈にノドが乾いた。
シンクの横の水切りカゴからコップをひとつ取り上げ、冷蔵庫を振り返った。
その瞬間、
――パタパタパタ、パタパタパタパタッ……!
廊下から聞こえてきたのは、明らかに、人間の足音。
オレは、ゾッとふるえあがった。
はずみで、オレの手にしていたコップはすべり落ち、床にぶつかり、
――パリーン!
と、粉々に割れた。
オレは、ガラスの破片を踏んでケガをしないように、食器棚の前に脱ぎ散らかしてあったスリッパを素足に引っかけざま、廊下に飛び出し、
――パタパタパタパタッ……!
と、騒がしく走った。
謎の足音は、ベッドルームに消えたようだった。
いつの間にか、恐怖より怒りが倍増している。
こう見えても、ひと昔前は、わりとヤンチャをしていたほうだし。
いかにも逃げ腰な、さっきの足音からは、たいした危険性も感じられなかった。
相手を迎え撃つ覚悟を決めるや、オレは、ドアをそっと少し引いて、中をのぞきこんだ。
すぐに、ベッドの上の羽根布団が、こんもり膨らんでいるのに気付く。
どこのどいつか知らないが、他人様の寝床にもぐりこんで身を隠すようなヤカラは、恐るるに足らず、だ。
オレは、ドアのスキ間から身をすべらせてコッソリ中に入り込み、ベッドに近付いた。
そのまま羽根布団の端に手をかけ、イッキに引っ剥がした。
ベッドの上には、着古したスウェット姿の男が。横向きに体を丸めながら、なんと、場違いにスヤスヤ寝息をたてて熟睡していた。
男は、オレにそっくり……いや、まるっきり、何から何までオレそのもの。
オレ自身だった。まぎれもなく。
なんなんだ、これは?
いったい、どういう……?
――ぐちゃぐちゃ、……ぐちゃ……。
かすかに聞こえてきた、くぐもった水音。
オレは必死に耳をすませながら、常夜灯の薄明かりを頼りに目をこらし、ベッドの上の"オレ"の顔を見下ろした。
すると、その鼻の付け根のあたりがボコッとハチ切れそうに盛り上がったかと思いきや、下に向かって移動すると、それぞれの鼻の穴から、小さな生き物が「ぐちゃり」と這い出てきた。
モグラをミニチュアサイズに縮小したような形状のその2匹の生き物は、どうやら血に染まって、全身が濡れそぼっていた。
オレは、あわてて後ずさった。だが、2匹の生き物は、蚤のような跳躍力で、オレの鼻の穴に、ダイレクトに飛び込んでしまった。
たちまち視界が真っ黒に染まり、グラリと頭がまわって、意識が、遠く……遠く……。
――ぐちゃぐちゃ、ぐちゃあっ、……ぐちゃっ、ぐちゃっ……。
なんともムナクソの悪い音が、頭の中に鳴り響く。ネバっこくて汁気の多い"なにか"を咀嚼するような。そういう音だ。
言い知れぬ恐怖がゾッと押し寄せてきたと同時に、「クシュンッ!」と、ハデなクシャミが出た。
そこで、オレは、目が覚めた。
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