俺じゃない!

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俺じゃない!

リモート会議が終わると、玄関のチャイムが鳴った。 「ハウスキーパーの森田ですぅ」   玄関を開けると、大きな荷物を抱えた小さなおばあさんが立っていた。 腰が曲がっているので、おじぎをしているような姿勢となり、顔がよく見えない。   今朝、妻が「今日はお掃除の人頼んでるからよろしくね」と言って仕事に行ったことを思い出した。 「どうぞ」とスリッパを出すと、おばあさんは「どうもどうも、おじゃましますぅ」と家に上がった。   おばあさんは、もう一度自分の名前を言うと、名刺を差し出し、緑色のエプロンをした。 「奥様に頼まれていますので、旦那様はゆっくりとなさってくださいな。勝手にやらせてもらいますぅ」   おばあさんは、そう言うとキッチンを見回した。 あんなに腰が曲がって掃除なんかできるのだろうか。 一体いくつなのだろう。 おばあさんが曲がった腰を反りながら天井の方を見上げたとき、あることに気づいた。 顔に見覚えがある。 「おばあさん、いや、森田さん。どこかで……そうだ! 会社だ。会社のビルの掃除のおばちゃんですよね? ほら、俺のこと覚えてませんか?」 「はて?」   おばあさんは、首をかしげとぼけた。 覚えていないはずがない。 何度も俺と言い合いになっているのだから。 大事な書類を勝手に捨てたり、まだ入っているコーヒーのカップを勝手に捨てたり、とにかく社内をうろついてはゴミを捨てたがるのだ。 みんな迷惑していたから、いつも俺が悪者になっておばちゃんを注意していた。 最近は、見かけないと思ったらクビになっていたのか。 まさかこんなところで会うなんて。 しかも、とぼけていやがる。 『ハウスキーパーの人、大丈夫か? 腰の曲がったおばあさんだぞ。替えてもらった方がいいんじゃないか?』 妻にメールを送ると、すぐに返信がきた。 『ベテランの人で、なかなか予約が取れないすごい人なのよ。しっかりやってもらって!』   妻には逆らえなかった。 静かにテレビでも見ていようかと思ったが、家のものを勝手に捨てられたらたまったもんじゃない。 おばあさんを監視することにした。   そう思った刹那、おばあさんの姿が見当たらない。 浴室をのぞくと、おばあさんは、シュッ、シュッと排水口にスプレーをかけていた。 換気扇はついているが、強烈なにおいが鼻をついた。   監視しようにもずっと見ているわけにはいかない。 仕方なく、リビングに戻ってテレビをつけた。   ピンポーンという音で目が覚めた。 いつのまにか寝てしまっていた。 「お荷物でーす」   玄関の向こうで、元気な声が響いた。 荷物を受け取り、部屋に戻るとき、浴室をのぞいたら、おばあさんはいなかった。   リビングに入るとぎょっとした。 キッチンでおばあさんが脚立に乗り換気扇の掃除をしていたからだ。 頭を大きく後ろに反り、手を伸ばすおばあさんは今にも落ちそうな体制をしている。 「大丈夫ですか? 無理しないでください」 「大丈夫ですぅ。慣れてますので。どうぞ、旦那様はゆっくりなさってください」 うちで怪我でもされたらいやだなと思いながらも、リビングに戻って届いた荷物をハサミで開けた。 その間も、ドキドキしながらおばあさんをチラチラと確認した。   おばあさんが脚立から下りようとしたそのとき、おばあさんの身体がぐらついた。 俺は、急いでキッチンに滑り込み、おばあさんの身体を支えた……つもりだったのだが、おばあさんは、床にどさりと落ちた。   その腹には俺が持っていたハサミが突き刺さっていた。 エプロンの緑色がどんどん濃くなり、床に血だまりができた。   叫び声が声にならず、その場に腰を抜かした。 おばあさんから鮮明な血液が流れ出て、俺の足元までやってきた。   そこで我に返り、おばあさんの身体を揺らした。 「だ、だ、大丈夫ですか?」   おばあさんから反応はない。 おばあさんは息をしていなかった。 ……やってしまった。 俺は、人を殺してしまった。   着ていた白いパーカーを脱いで、床に流れた血液を拭いた。 みるみるうちに真っ赤に染まるパーカーを見て恐怖に駆られた。   警察に……いや、まずは救急車を呼ばなくてはいけないのではないか。 でも死んでいるし、そういう場合は警察か?    おばあさんの腹に刺さっているハサミを見て俺は首を振った。 警察に連絡なんかしたら、俺は逮捕される。 いや、でも俺はおばあさんを助けようとしたんだぞ。 殺そうなんて考えたこともない。   そんなことを話して警察は信じてくれるのか?  警察は、俺とおばあさんの関係をすぐに調べるだろう。 そうしたら会社の同僚はこう証言するはずだ。 「二人は犬猿の仲でした。いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていました」 俺は頭を抱えた。 そして、しばらく考え込んでから決意した。 なかったことにするしかない。 俺には妻がいる。 近い将来は子どももできるかもしれない。 こんなことで人生を狂わせるわけにはいかないのだ。   レインコートを着ると、時計を確認した。 あと三十分後にリモート会議があって、三時間後には妻が帰ってくる。 それまでにすべてを終わらせるのだ。 キッチンの床に横たわるおばあさんに手を合わせた。 「おばあさん、ごめん。許してくれ」 出刃包丁を準備し、おばあさんを抱きかかえて浴室に向かった。 水分を失い枯れ果てた身体は軽かった。   出刃包丁を持つ手が震えた。 全身から汗を流しながら、刃をそっと皮膚に当てては離しを繰り返し、ただ時間だけが過ぎた。 俺は平凡で善良な市民だ。 遺体を切断するなんてできない。   まずい。 会議に出なくては怪しまれる。 一旦、包丁を置いて、レインコートを脱いでパソコンの前に座った。 「汗だくだな」   画面の向こうで上司が笑った。 「ええ。ちょっと煮詰まったのでエアロバイクを漕いでいまして……」   汗を拭きながら答えた。 汗を拭いていたタオルが真っ赤なパーカーであることに気づいて、急いで画面から外した。   上司は、「予算がな……」と言い続けていて、一向に話が進まない。 時間は刻一刻と過ぎていく。 会議の内容なんてまったく頭に入らなかった。 ただパソコンの時計をじっと見つめた。   結局、何も決まらずに二時間を過ぎて会議は終わった。 「これから晩酌だ」とうれしそうに上司は電源を切った。   おばあさんが消えていてくれないかなと考えながら浴室に向かうが、そんなことはなく、おばあさんは青白い顔をしたまま虚空を見つめていた。   もう一度レインコートを着て、おばあさんの目を閉じると出刃包丁を両手で持った。 見ないでやればいい。 振り下ろせばいいのだ。 早くしないと妻が帰ってきてしまう。 もうやるしかないのだ。   ぎゅっと固く目をつむり、俺は、出刃包丁をおばあさんの腕に思いきり振り下ろした。 鋭い音がした。   目を開けると、ひじのあたりから切断されていた。 できた! 俺は、やればできる男だ。 少し自信をつけたそのとき、腕から何かが出ていることに気づいた。   人工関節でも入っているのかと、腕に顔を近づけると、そこには配線の束が埋め込まれていた。 切れた配線からは火花が飛び散った。 これは一体……。 「ただいまー」 玄関の方から妻の声が聞こえたが、頭が混乱し、俺は身動きができなかった。 パタパタとスリッパの音が近づいてくる。 「あなたー」   キッチンの方から俺を呼ぶ妻の声がした。 「ちょっといるなら返事くらいしてよ」 脱衣所に妻が現れ、浴室にへたり込む俺を不思議そうに見つめた。 「どうしたの?」   そう言って妻は、浴室をのぞいた。 その瞬間、妻は目を見開き、息を吸い込みながら手で口元を覆った。 そして、嗚咽を漏らし、ふらつきながら立ち去った。   我に返り妻を追いかけた。 「ちがうんだ。俺じゃない。信じてくれ」   妻の肩に触れようとするのだが、妻は抵抗し、俺を振り払う。 「あなた、何てことを……」 「ちがうんだよ。俺は助けようとしただけなんだ。これは事故だ」 妻の腕をがっちりとつかむと、妻は思いきり抵抗して俺を突き飛ばした。 その勢いで、妻の身体は後ろに倒れ、頭をダイニングテーブルの角に打ちつけた。 「おいっ、大丈夫か?」 「あな、あな、あなた……あな、あな、あなた……」   妻の身体は痙攣し、壊れたテープのような音声が妻の口から放たれた。 まさか……。   俺は、出刃包丁を握ると妻の腕に振り下ろした。 腕の切れ目からはいくつもの配線が飛び出ていた。   俺は家を飛び出した。 駅から帰宅する人々が吐き出されていく。 全員がアンドロイドに見える。 この中に人間はいないのか?  生きた人間はいないのか?    俺は、叫びながら持っていた出刃包丁で人々を切りつけた。 振り回した包丁が自分の腕を切りつける。 鋭い痛みが走る。 この痛みは生きた人間である証だ。 「俺は人間だ!」   夜空に向かって叫ぶと、自分の腕に包丁を振り下ろした。 見ろ! 俺は生きている! おまえらとはちがう!  切り落とされた腕を掲げた。 人々は、遠巻きに俺を見ていた。 夜空に輝く俺の腕。 切り口からは、配線が飛び出して火花が散っていた。
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