最後の走馬灯

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最後の走馬灯

子どもの頃、私の家は貧乏だった。 両親と祖父母と兄2人の7人家族で、風呂のない平屋に住んでいた。 おこづかいなんてもらったことないし、おやつは祖母が作る食パンの耳を油で揚げて砂糖をまぶしたものだけだった。 洋服は、2人の兄のおさがりで、スカートは買ってもらえなかった。   当然、学校では貧乏を理由にいじめられ、高校生になるとアルバイトで貯めたお金でおしゃれをした。   そんなつらい思春期を乗り越え、これからは完璧な人生を送ると決意して上京し、銀座の高級クラブに勤めた。 そこで、男を見る目を養い、私の完璧な人生に一番ふさわしい開業医と結婚した。 それからは、望み通りの人生を生きてきた。 高級住宅街の豪邸に住み、年に数回は海外旅行にでかけ、ブランド物を買いあさり、習い事を掛け持ちして自分を磨き、それに飽きた頃、かわいい息子を授かった。 すべては完璧だった。   息子を医学部に入れるために厳しく育ててきた。 息子がお腹にいるときから教育は始まっていた。   まずは、家の中には常にクラシックを流してお腹の息子に聴かせた。 それだけでは満足できず、息子には本物の音を聴かせたいと、家に有名なバイオリン奏者を呼んで演奏してもらうこともあった。   お受験で有名な教室に通ったが、息子はお受験に失敗した。 落ち込む私に、ママ友は言った。 「光輝くんなら中学受験からでも東大に入れるわよ」   まだ小学生だ。 これからいくらでも挽回できる。 切り替えが早いところが私の良いところだ。   学校から帰ってきた光輝は目を輝かせていた。 「ママ! ぼく、野球やりたい!」   光輝の背中からランドセルをおろすと、光輝の目をじっと見つめた。 「どうして急にそんなこと言うの?」 「今日、友だちに教えてもらったんだ。今から野球をする約束したから行ってもいいでしょ?」   これだから公立の小学校は嫌だったのよ。 私は、ランドセルからノートを出してページをめくった。 「ダメ?」   筆箱を出すと、鉛筆を一本一本テーブルに並べた。 「今日の予定は?」   私の質問に、光輝は視線を落とし答えた。 「英会話とピアノ」 「そうよね。今から家庭教師の先生が来るのよね? 野球なんかしている暇なんかないわよね?」   鉛筆を削り筆箱に戻すということを繰り返しながら光輝に説明した。 最後に、消しゴムの黒くなった部分をこすって白くし、筆箱に戻すと、光輝は「分かった」と言って自分の部屋に戻った。   野球なんて東大受験にはいらない。 勉強以外の習い事は、ピアノと水泳と決めている。 なぜなら、東大生が子どもの頃にならっていた習い事がそれらだからだ。 周りの東大受験を考えているママ友たちの間でも、それらは当たり前の共通知識だった。   中学受験に失敗した光輝は、公立の中学に入学してすぐに不登校になった。 入れ代わり立ち代わり家庭教師が自宅に足を運んだ。 学校で、クラスメートに変な入れ知恵をされるよりましだ。 むしろ、家で勉強した方が効率がいい。   光輝が勉強をがんばっている間、私は、栄養学の勉強をした。 私にできることは光輝の健康管理だ。 栄養学だけではなく、運動のことも勉強し、夕方に30分散歩をする時間を設けた。 光輝だって、一日中部屋に閉じこもっているのも気が滅入るだろう。   いつも通り、散歩に送り出すと、私は夕食作りに取りかかった。 週に4日は青魚を使った料理を作る。 今日は、アジのお刺身だ。 新鮮な魚を取り寄せ、自分でさばく。   刺身を盛りつけ、時計を見ると、光輝が散歩に出てから45分も経っていた。 時間に正確な光輝が時間通りに帰ってこないことはこれまで一度もなかった。   きっと何かあったのだ。 すぐに手を洗いエプロンをはぎ取り玄関に向かったそのとき、電話が鳴った。   受話器の向こうで低い男の声が警察官だと名乗った。 隣町のスーパーまでタクシーで向かう。 光輝が万引きだなんて。 きっと何かのまちがいよ。 高鳴る心臓を押さえながらスーパーに出向くと、光輝がうつむいたまま座っていた。 テーブルの上には、ハンドクリームがポツンと置いてあり、光輝の向かいに太った男がいて、店長と書かれたネームプレートをつけていた。 その男の隣には、水色の制服を着た警察官が一人立っていた。 店長は腹を揺らしながら大きなため息をついた。 「お母さんですか?」   店長の質問には答えず、光輝の手をとった。 「ごめんね。お母さんが悪かったわ」   私は、警察官に向かって声を張り上げた。 「私が悪いんです。この子は何も悪くありません。私が、ハンドクリームを頼んだんです。うちはツケで払うことが多いんです。だから、お金を渡すのを忘れてしまったんです。私のミスです。この子は何も悪くありません。いつも通りの買い物をしただけなんです」 警察官は後ずさりし、店長は口をゆがめ苦笑いをした。 「お母さん、ツケ払いは結構なことですが、中学生なら分かるでしょう。この子は万引きをしたんです。犯罪です」 「そんな言い方しないで下さい!」   光輝の前に立ちはだかり、私は息子を守った。 そして、店長に近づくと、バッグからお札の束を取り出し、店長の手にそっと握らせた。 店長と目が合うと、女神のように微笑んだ。 「ご迷惑をおかけしてすみません」 「まあ、お母さんの言うことも一理ありますし、今回はまあ、そういうことで……」 光輝は、無事に第一志望の高校に入学し、より一層勉強に力を入れた。 私は光輝の手と足となり、やれることはすべてやってついに念願の東大に合格した。   夫にもほめられ、理想通りの完璧な人生だった。 人々は、私に東大合格の秘訣をたずねた。 息子を自慢しつつ、私の教育法を伝授している間に光輝は立派な医者となった。   数年間、大学病院に勤務してから、夫の病院に次期院長として勤務した。 すべては順調だった。   ある日、夫に用があり院長室に行くと、夫の怒鳴り声が聞こえた。 「なんてことをしてくれたんだ!」   光輝がソファでうなだれていた。 今まで光輝のことは私に任せっきりで、夫が口出しすることはなかった。 しかし、夫の病院に勤めるようになってから、夫は光輝に対して叱りつけるようなことが続いていた。 「ちょっとどうしたのよ。そんなに大きな声を出して。廊下にまで聞こえてたわよ」   夫は、答えずデスクに腰を下ろすと頭を抱えた。 「光ちゃん大丈夫? 一体、何があったの?」 光輝は黙ったままうつむいていた。 「医療ミスだよ」 夫が答えた。 「医療ミス?」 「医療ミスだけじゃない。女性の患者さんからセクハラされたとクレームが来てるし、看護師からもストーカー被害を訴えられている」 「誰が?」 夫は目を見開いた。 「光輝に決まってるだろ!」   まさか。光輝が……。 セクハラ? ストーカー? 医療ミス?  そんなことありえない。 何かのまちがいよ。 「あなた、一体何を言っているの? 光輝がそんなことするはずないでしょ?」   夫は立ち上がると、光輝の頭上から指を差した。 「おまえは息子の何を見てるんだ! こいつは仕事もろくにできないクズだ!」   夫に反論しようとしたそのとき、光輝が立ち上がり、夫に抱きついた。 光輝の肩にそっと手を触れたとき、夫の白衣が真っ赤に染まっていることに気づいた。 光輝の手にはバタフライナイフが握られていた。   夫は床に倒れ、光輝は馬乗りになり夫の腹を何度も刺した。 私は全身の力が抜けてその場に崩れ落ちた。 気づくと、私の目の前に真っ赤に染まったナイフを振りかざす光輝の顔があった。   どうして? 完璧な私の息子がどうして……。 最後の走馬灯はまちがっている。 私にはまだやることがある。 光輝の医療ミスを隠ぺいし、夫の遺体も隠さなくてはいけない。 息子のために。 そして私の完璧な人生のために。 絶対に死ねない!  目を開けると、真っ白な天井が見えた。
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