最果ての夜に

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 みなとみらいは人でごった返していた。なんとかファストフード店に並んで食べ物はゲットできたけど、地味に狙っていた新作のシェイクは品切れだった。加賀美さんは「近くの別店舗にあるかも。探す?」を気を使ってくれたけど、断った。もしその店舗も品切れだったとき、僕は自分に及ぶ実害を認めてしまうような気がして嫌だ。  テイクアウトしたそれらを持って、商業施設のテラスに向かう。みなとみらいの大観覧車や横浜港が一望できるよう、ベンチがいくつも設置してある。人が多い分、ベンチはほとんど埋まっていたが、一つだけ空いていたそこに二人して急いで座った。 「みなとみらい、20年振りくらいかも」 「え、そんなに?」 「子どもの頃に両親と来たらしいんだけど、あんま覚えてない。それぶり」 「じゃあ今日これてよかったね」  ポテトを食べつつ、目の前の景色に目を向ける。東京のネオンも煌びやかだと思っていたけど、ここはここで別世界のようだ。全然目にうるさくない。彼女がみなとみらいを気に入る理由がよくわかる。  綺麗だと思うのと同時に、得体の知れない恐怖が芯から湧いて出てくるのが気持ち悪い。押しとどめるように、次から次へとポテトを口へ運んで、流し込むようにコーラを飲んだ。僕はもう、眠れる自信がない。 「神楽くん」  名前を呼ばれてハッとした。汗がこめかみを伝う。加賀美さんが貸してくれたハンカチを受け取って、冷えてもいないそれで冷やすように目頭をあてた。 「帰る?」 「…嫌だ」 「でも、顔色が悪いよ。私なら大丈夫だから」 「僕が、大丈夫じゃない」 「神楽くん…?」 「怖い」  背中をさすってくれる彼女に寄りかかるようにして、自我を保った。誰かの体温を感じていないとどうにかなってしまいそうだ。  夜がなくなる。今夜が明けたら、もう二度となくなる。世界を覆い尽くす闇が、こんなにも壮大なものが、消滅するのだ。どうしてこんな重大なことに、僕は今まで気づかなかったんだ。  切なくなるほどの夕日。東京タワーやスカイツリーのライトアップ。夢の国の夜のパレード。目の前にある大観覧車の色彩。月。星空。いつか愛する人ができたら実行しようと思っていたディナーでのプロポーズ。暗闇の中でする秘密の行為。イルミネーション。花火。ホタルイカの海。誕生日に消すケーキの上のロウソク。深夜の徘徊。眠れなかったときの薄暗い朝の日の出。  この世のロマンチックのおよそ八割は、夜が担っていたのではないか。当たり前すぎるから気にしていなかっただけで、僕はそのどれもが好きだった。自覚していなかっただけで、ちゃんと生活の一部だったのだ。最後の晩餐みたいだなんて、夜がなくなってしまったら晩餐という言葉もなくなってしまうじゃないか。裏切られた気分だ。 「…嫌だ」  朝のテレビで見たカップルを思い出す。止まらない今夜の電車を運転している車掌を思い出す。気づきたくなかった。この恐怖心と闘えるほど、僕は強くない。日の沈まない世界で、どうやって眠れと言うのだ。 「神楽くん」  また名前を呼ばれて、顔を上げた。加賀美さんは僕の目を見て「しっかりしなさい」と言った。彼女は泣いていた。 「常にあると思っていたものがなくなるのは恐ろしいことだけど、それでも生きていけるの。私は去年、おばあちゃんを亡くした。寿命よ。とても強くて優しい人だった。それでも抗えないものがあるの。残された私たちは、それを受け止めて、強く生きなきゃいけない。今夜のことを目に焼き付けて、この世界に夜があったことを忘れないように。だから私は今日ここに来たの」  心の臓を揺さぶるような訴えに、僕も涙が零れた。電車の中で、みんな同じ気持ちだと信じきれていなかった。僕だけが恐怖を感じているような感覚だった。でもちゃんと、みんな怖いのだ。永遠の象徴みたいな存在だった"夜"がなくなるのが、怖いのだ。 「…ごめん」  泣きながら、加賀美さんの涙を拭った。ずっと現実を見ていなかったけれど、今日やっと、夜がなくなることに対する喪失感を知った。知りたくなかったが、知ることができた。  当たり前なんてない。揺るがないと思っていたものが、ある日突然消えてなくなることは大いに有りうる。宇宙規模で見てもそうなのだから、僕が生活の一部にしているもののほとんどはきっともっと儚い。彼女の体温さえ、ちゃんと覚えていなければいけない。  僕らは恋人のように寄り添って、夜が更けるのを待った。大観覧車の光り方のパターンを覚えてしまうほど、目の前のすべてを目に焼き付けた。  午前零時。街が本物の暗闇に包まれる。二人して手を握った。周りの人たちのざわめきを聞いて、でも静寂の中にいるみたいに、暗闇を、夜空を、瞬きも忘れるほど見つめた。世界はこんなにも暗かったのか。夜はこんなにも偉大だったのか。ああ、なんて、恐ろしく美しい。  たった30秒間の深い闇は、永遠より長く感じた。ずっとこのままでいてほしいと思うのと同時に、暗闇に無条件に不安を抱いてしまう生物の本能を悟る。少なくとも僕は昼行性だ。  加賀美さんと会話もしないまま、30秒が終わった。電気がついて、隣を見ると、彼女は涙を零しながら笑っていた。 「私たち、幸せだね。夜を知ってるんだから。本物の暗闇を知ってるんだから」 「…うん、そうだね」  これから生まれてくる子どもたちは、歴史の中で"夜"を学ぶのだろう。でも、この例えようのない喪失感と感動まで後世に語り継ぐのはきっと、難しい。体感できたことを心から誇りに思う。
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