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第2話 居場所のない家
暗室の後片付けを終えた私は、部室の戸締まりをして学校を出た。
ユウが私の後をふわふわとついてくる。
足は地面に接しているし、歩く動作もしているのだが、どこか浮遊感がある。
ふわふわ、としか形容しようのない動きが、
「……気持ち悪い」
「なにが?」
「ユウのその歩き方」
「普通に歩いてるだけだよ」
「どこかヘンなんだよね……やっぱ、幽霊だからかな」
「そんなことないと思うけど……あっ!」
ぱっとユウの姿が消える。
見れば、少し先の角から出てきたおばあさんが、こちらに向かって歩いてくる。
しばらく一緒に過ごしてみてわかったのだが、ユウは私以外の人間の前では姿を消してしまう。
その理由は、
「CIAに見つかるのが怖いから」
どうやらユウは、CIAに捕まって実験台にされるのを警戒しているらしい。
「――だって僕、本物の幽霊だよ?」
「それとCIAにどんな関係があるの」
「わからないかな……本物の幽霊なんて、CIAが放っておくわけないじゃないか」
「……スパイとして使うとか?」
「そんなんだったらまだマシだよ。捕まって何かの実験台にされて、痛くて苦しい思いをさせられるに決まってる」
「でも、幽霊には触れることができないのに、どうやって捕まえるの?」
「そこはCIAだよ! 特殊な装置で、幽霊だろうが何だろうが捕まえることが可能なんだ」
〈特殊な〉で済ませようとするなんて……古いSFか。
「具体的にはどうやって捕まえるの?」
「知らないよ、CIAに訊いてみてよ……いやダメだ。そんなこと質問したら、幽霊が実在していることを教えているようなものじゃないか」
「心配しすぎだと思うけど……私がCIAに通報しないって、どうして思うの?」
「美里のことは信じてるから」
「なにそれ……根拠は?」
「直感、かな」
「はぁ?」
おばあさんとすれ違い、再び周囲に人気がなくなる。
家に近づくにつれ、気分が沈んできた……。
ふと気つけば、ユウが私の隣を歩いている。
「浮かない顔だね……心配ごとがあるんだったら、僕が相談に――」
「……いいよ」
「学校ではひとりでも楽しそうに過ごしてるのに、家の周辺だと顔を曇らせる……それも毎日」
「……黙ってて」
「何か僕にできることがあればいいんだけど……」
「だったら消えて」
「でも――」
「消えて」
「……わかった……でも、僕が必要になったらいつでも呼んで」
「早く消えて」
「……うん」
ユウの姿がすうっと薄れ、やがて完全に見えなくなる。
べつに成仏したわけではない。
ユウは好きなときに消えることができるし、好きなときに姿を現すことができる。
私がカメラのシャッターを切る時には、強制的に引っ張り出されるらしいけど……迷惑な話だ。
姿を消している時、ユウがどこにいるのかというと、
「さぁね……どこにもいないんじゃないかな」
「どういうこと?」
「美里のそばにいるとき以外の記憶はないんだ」
「ふぅん……よかった」
「なんで?」
「だって、お風呂入るときとか着替えるときとか、いくら幽霊でも見られたら嫌だし」
「年頃の娘だもんね」
「自分だって同い年くらいのくせに……ジジくさい」
「大人びてるって言って欲しいな」
玄関のドアに手をかけたまま、ユウとの会話を反芻する。
単なる時間稼ぎ。
私がいま住んでいるのは、住宅街に建っているごく普通の一軒家。
30坪ほどの2階建て。
「……ただいま」
鍵を開けて、誰もいない家に入る。
伯父さんも伯母さんも外で働いていて、どちらもまだ帰宅していない。
2階にある自分の部屋で体操服――学校で使っているもの――に着替え、再び外へ。
足下は、これも体育の時間に使っている学校指定の運動靴。
準備運動をした後、走り始める。
いつものコース。
人や車のなるべく少ない道を通って川沿いの土手に出て、だいたい5キロくらい。
周囲に人影がなくなっても、ユウは出てこない。
ユウとの会話は嫌いじゃないけど、今はひとりになりたい。
走っている間は、頭を空っぽにしたい。
学校も家も何もかも意識に上ることなく、ひたすら感覚器からの情報を受け取るだけ。
地面を蹴る足の裏の感じ
流れてゆく風景の色彩、形
肌に当たる風の感触、温度
様々な匂い、音――
帰るまでに、だいたい30分。
玄関前で息を整えるうちに、汗が冷えてゆく。
西の空に金星が見える。
ずいぶんと日が短くなった。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
伯母さんがもう帰っていた。
キッチンで夕食の準備に取りかかっている。
急いでシャワーを浴び、伯母さんの手伝いをする。
「……また走ってたの?」
渋い顔で伯母さんが言う。
私が毎日走っていることが気にいらないのだ。
というか、この人は、私の存在自体を疎んじているんだと思う。
はっきりと言われたことはないが、言葉の端々や表情などにそれを感じることがよくある。
伯父さんとは話らしい話をしたことがないけど、伯母さんと同様に、私を疎ましく思っているに決まってる。
伯父さんは、私のお父さんのお兄さんで、伯母さんはその配偶者だ。
10年ほど前、住んでいた家が火事になった。
その時の私は、お父さんと二人暮らし。
お母さんは私を産んだときに亡くなっている。
火事の原因はお父さんの寝たばこ。
その火事でお父さんは死んでしまい、私だけが生き残った。
焼け跡からお父さんのカメラが発見された。
カメラは火災に遭った形跡もなく、綺麗なままだった。
誰かに盗られるのが怖くて、カメラに釘で自分の名前を彫り込んだ。
フィルムは入っていなかった。
火事ですべて焼けてしまったので、昔の写真は残っていない。
だから私には、お母さんの顔はもとより、お父さんの顔もおぼろげな印象しか残っていない。
だけど、お父さんの手はよく覚えている。
大きくて、指が太くて、温かくて、乾いていた。
日曜日に手を繋いで近所の公園に行ったこと。
泣いてる私の涙を太い指でそっとぬぐってくれたこと。
一緒におにぎりを握ったこともあった。
パン祭りでもらったお皿の上に、お父さんの握った大きなおにぎりと、私の握った小さなおにぎりが並んでいる――
お父さんについて覚えているのは、グローブのようにがっしりとした手にまつわることばかりだ。
その後、紆余曲折があって、最終的に私を引き取ったのが伯父さん夫婦だった。
以来、高校生の今になるまで、ずっと私の面倒を見てくれている。
伯父さん夫婦が私を引き取った理由は、単に世間体を取り繕うためだけだったのだと思っている。
それでも私は、彼らに感謝すべきだ。
「美里さん、あなたって本当に不器用ねぇ」
「……ごめんなさい」
「いつまでたっても、包丁ひとつ満足に扱えない」
「…………」
「貸しなさい」
手にした大根と包丁を取り上げられる。
言うだけあって、伯母さんの手つきは鮮やかだ。
「かつらむきは包丁の基本なんだから、出来るようになっておかないと」
何度言われても、出来ないものは出来ない。
ぼうっと見ていると、伯母さんが手にした大根がスルスルと帯状に薄く剥かれていく。
見ているだけなら簡単そうなんだけどなぁ……。
「包丁とまな板を平行に……右手は小刻みに上下に動かして、それに合わせて左手で大根を回していく……ね?」
「……はい」
「じゃ、やってみて」
再び包丁を握らされた。
伯母さんの目を意識しながら、大根と格闘する。
どうしても、伯母さんのようにうまく手を動かすことができない。
私って、料理に向いてない……。
なんで伯母さんは、私に料理を仕込みたがるんだろう……いくら練習しても上手くならないのに。
同じ家事でも、掃除や洗濯なら苦にならない……ていうかむしろ好きだし、得意なんだけどな……。
「そんなに厚く剥いたら、お刺身のつまには使えないでしょ」
「……はい」
「あなたが剥いた部分は、きんぴらにでもしようかしらね」
細切りにした大根をごま油でさっと炒め、酒、砂糖、醤油と唐辛子で味をつけ、仕上げに白ごまを振る。
厚めに剥いた大根の皮で作るものだが、皮の部分じゃなくてもおいしいはず。
「あとは私がやるから、美里さんはお風呂の掃除をしておいて頂戴」
「…………」
「返事は?」
「はい」
おなかの中――胃のあたりに、鉛の塊が入っているようだ。
この家に私の居場所はない。
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