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第一章 喫茶探偵 3
風間グループは、一小規模家電メーカーから始まり、吸収、合併を繰り返して、金融業から保険関係、建築、基礎である家電メーカーに果てはコンビニエンス事業部などを傘下に置く、複合企業であった。グループ企業としては業界二位で、一位との差は埋めがたいほどの差があった。ことに、成長著しいコンビニエンス業界に限っていえば第四位であり、弱みでもあった。そこで、コンビニエンス業界第三位の間仲グループに目をつけた。間仲グループを傘下におさめると、業界二位を抜いて一位をうかがうほどの規模となる。風間グループの御曹司・風間慶一と間仲グループの御令嬢・間仲有佳里との結婚により、それを成し遂げようと図ったのである。
ちなみに、風間一族は、元は「風魔」とも「風摩」とも称し、高名な忍者の末裔であった。更に面白いことに、忍者「風魔」の本姓は「風間」であるという。風間一族は、名前だけを見れば、まさに先祖返りしたような感があった。それはともかく、風間一族は忍者である風魔の系譜に連なることは、広く世間に周知されていた。
順調に成長すれば、風間慶一は風魔一族の次期頭首となる。忍者の末裔であるということもあってか、風間一族は情報の価値や有益性を高く評価しており、その収集には特段の力を傾注した。その基となるのは豊富な財力であり、政・財・官に深く切り込んだ幅広い人脈による。
コンビニエンス業界では第四位である風間グループは、自社より上位の間仲グループを吸収合併の相手に見定めた。他社には妙齢の相手がいなかったことも理由のひとつであったが、全国に広く店舗を展開している間仲グループに、旨味を見出していた。自社の弱い部分を補って余りあるからである。
風間グループの代表取締役会長、最高経営責任者、風間源蔵は今年、齢八十二になる。威厳に満ちた風貌で、他を寄せつけない鋭い眼光で四囲を睥睨する。剛腕をもって鳴り、強引ともいわれる手法で一代で財を成した。源蔵の子供は三人。ふたりの姉と唯一の男である慶一であるが、歳を取ってようやく生まれた男児、慶一にかける思いは凄まじいものがあった。現在、代表取締役社長、最高執行責任者のポストには、女婿の牧田直純が就いていた。しかし、この人事は不変的なものではなかった。慶一がしかるべき年齢に達するまでの一時的なものにすぎない。慶一は生まれた時から、二十三歳で風間グループの社長の席が約束されていた。そのために、小さな頃から帝王学を学んでいたのである。
「この世の人間は、二種類に分けることができる。わかるか、慶一?」
「勝者と敗者ですか?」
「いや、違う」
源蔵は重々しく顔を振った。
「従わさせる者と従わさせられる者だ」
「従わさせる者と従う者ですか?」
「違う、従わさせられる者だ」
「どう違うのでしょうか?」
子供である慶一には、違いがわからなかった。
「従う者とは自ら進んで尻尾を振る、そうする者だ。だが、そんな者には価値がない。見るべきものがない。従わさせられる者とは、そうせざるを得ない状態へ追い込まれた者のことを指す。自分の意志ではなく、仕方なくそうせざるをえない状態にある者、そう自らを規定している者だ」
「追い込まれた者ですか? ですが、追い込まれた者はなにをするかわからない。不確定要素が高いのではないでしょうか?」
「そうだ、追い込まれた者はなにをするかわからない。だから、そういった者を誘導するのだ。従わさせる者の思いのままに従わさせられるようにな」
「思いのままに従わさせられる」
慶一は、父・源蔵の言葉を繰り返した。
「この世は決して公平ではない。人間は決して平等ではない。これは真理だ。お前は生まれついての従わさせる者だ。他者とは違う。そのことは、肝に銘じて決して忘れるな」
「はい」
源蔵は、素直に返事をして考え込んだ幼い慶一を、鋭すぎる眼光で睨みつけた。
「うむ、いいだろう。今はわからなくてもいい。実感できないかもしれぬ。だが、考えることを忘れるな。いずれわかる時が来よう。全ては、約束されたことなのだ」
子供であった慶一は、子供らしからぬ重々しさで、黙念とうなずいた。
そんな慶一には、小さな頃からかしずく者がいた。その人物は特別な存在であったようである。名を都筑彰男といった。年齢は慶一と同じ歳で、唯一の友ともいえる存在であった。その扱いは、父の教えに背くものであったかもしれなかったが、不思議なことに、源蔵は、慶一が彰男を友と慕うことをとがめたりはしなかった。彰男を単なる使い走りとして扱うようであれば、慶一はそれだけのつまらない取るに足りない男でしかない。また、全てを依存するようであれば、源蔵は慶一を我が子とも思わないであろう。彰男は、源蔵にとっても特別な存在であったようである。
慶一は父の教えをことあるごとに反芻した。繰り返し思い出すことで、自分が為すべきことはなにかを考えた。高校へ上がる頃には、慶一は父の眼鏡にかなう男となっていた。かしずかれることを当然と思うようになっていた。慶一は思慮深くなった。そして、用心深くなっていた。
間仲有佳里と結婚することを聞かされた時、慶一はなんとも思わなかった。心の表層に、さざなみさえ立たなかった。取るに足りないこととして、簡単に受け入れた。父のやることに誤りがあるはずがない。父は無意味なことはしない。父は絶対的な存在であった。
間仲有佳里の写真を見せられた時、屈託なく微笑む少女の姿に乳臭さを感じた。無理もなかった。写真に収められていた有佳里は、まだ中学二年生、十三歳にすぎなかったのである。慶一は十六歳、すでに女を知っていた。十三歳の少女に欲情するほど、女に飢えてはいなかった。なにもしなくても、いい寄ってくる女はいた。それは、ひとりやふたりではなかった。
「どうせ、政略結婚だ。おれの好きにさせてもらう」
慶一はそういって憚らなかった。大人の事情というものにも通じるようになっていたのである。
慶一は、覇道を歩まなければならなかった。そして、帝王にならなければならなかった。「怪物」と呼ばれた源蔵の後継者としてだけではなく、父を超える「怪物」に。だからこそ、何事にも、負けるわけにはいかなかった。慶一は、勝つことを要求された。人を従わさせる人間とは、絶対に負けることは許されないと教えこまれてきた。慶一は勝つために学んだ。勝ち続けるために、学び続けた。
高校三年の四月、慶一は十八歳になった。法的に結婚できる年齢になったが、間仲有佳里は、まだ十五歳の中学三年生であった。正式に結婚できるまで、二年半を要した。その間、慶一は徹底的に遊んだ。酒、煙草、女。ことに、女性関係は狂乱を極めたといわれている。しかし、相手を孕ませるような失態を、一度も犯さなかった。慶一は思慮深く、用心深かった。あるいは、金で解決できる問題であったかもしれない。しかし、それは死に金である。金はあって困るものではなかった。しかし、決して万能ではなかった。活かしてこそ価値が有るものであった。故に、活きた金の使い方を知っていた。それは、子供の頃に受けた偏った帝王学で学んだのである。
「札束で他人の頬をはたくのは賢い手段ではない。活きた金の使い方を考えろ」
「活きた金の使い方?」
源蔵は大きくうなずいた。
「この世には、金で動かない人間がいる。そういった人間を従わさせるのだ」
「どうやってですか?」
「それは自分で考えろ。答は、常に与えられるとは限らぬ。自分の頭で考えることを決して怠るな」
慶一は考えた。脳が熱くなるほど考えた。考えぬいた。金を積むのではない。ならば、情に訴えるのか。
「いや、違うな」
父・源蔵が情などという不確定なものを頼みとするわけがない。それは正しい見立てであろう。ではなんだ。金で動かない人間を意のままに従わさせるにはどうすればよいのであろう。慶一は考えた。そして、やがて、ひとつの結論に到達した。
「脅迫か?」
従わさせたい者の弱みをつかみ脅迫する。いや、脅迫する必要はない。脅迫はれっきとした犯罪行為である。ただ弱みを握ればいいのである。戦意を喪失させるような、圧倒的な絶対的な弱みを。
そのためには、情報が欠かせない。情報を得るために、徹底的に相手を調べ尽くす。それが、活きた金の使い方なのであろう。自社よりも上位にあるコンビニエンス業界第三位の間仲グループを傘下に収めようとする事案、父・源蔵の幅広い情報収集と、それを判断する的確な指標。まさに、情報や金がいかに価値があるかを示す、それは好例であった。源蔵は体現してみせたのである。情報がいかに重要かを。そして、活きた金の使い方を。
「ふっふっふっ」
広い部屋の内部に、慶一の人を小馬鹿にするような笑い声が反響した。傍らに控えている彰男が軽く一礼してから語りかけた。
「なにか、良いことがございましたか?」
慶一は、不愉快そうに眉をひそませた。
「笑ったからといって、良いこととは限らない。違うか? 彰男」
彰男は、かしこまったように再び頭を下げた。
「はい、申し訳ございません。思慮が足りませんでした。お許しください」
「いや、かまわない。お前はそれでいい。ありえないことだが、おれの暴走を止めるのはお前しかいない」
「恐縮です」
深々と頭を下げた彰男の後頭部に目をくれると、慶一は一瞬、探るように目元を歪めた。それから、彰男が頭をあげる前に、慶一は立ち上がった。
彰男は背の高い男であった。慶一も一八〇センチを超える長身であったが、彰男はそれよりも背が高かった。そして、街を歩けば女性が振り返るような美男子であった。慶一も端正な容貌をしているが、どちらかといえば目元の鋭い精悍な顔つきであった。人を従わさせる人物のような、威厳のような風格が既に備わっていた。それは先天的な遺伝によるところも大きかったが、後天的に学習した結果であるのも、また事実であった。
慶一は、彰男の傍らを通り過ぎる際に、彰男の肩に手を置いた。
「おれを失望させるなよ、彰男」
ひとこと釘を差すように告げると、慶一は自室を出て行った。その後を、彰男が続いた。それはまるで、風間慶一の決して剥がすことのできない影のようであった。
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