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しばらくゆったりと会話を交わしているうちに、緊張の糸が切れたのだろう。佐伯に抱えられたまま、比嘉は気絶するように眠りに落ちた。
事務所のベッドに運ばれて、丸一日寝こけた後で、ようやく比嘉は目を覚ます。何日も休んでいると、体のだるさはなくなった。代わりに、何をしていなくても涙が出て、物に当たらずにはいられない状態になった。
「体が大丈夫になったら、メンタルがおかしくなるってなんなんだよ。辰巳……あの蜂野郎、よくもこんな目に合わせやがって……くそ、くそ、くそ……」
「いいことだ。心が動くだけの元気が戻ってきたということなのだから」
「でも!」
噛みすぎて深爪になった指を、宥めるように佐伯が撫でる。優しいだけの仕草なのに、たったそれだけの接触で、比嘉は息ができなくなった。悪夢のような記憶がよみがえり、体が竦んで動かなくなる。
指を絡める。
息ができないほどのキスをする。
暗い部屋にひとりになる。
どうということもなかったはずのそれらすべてが、たった数ヶ月間の記憶と恐怖を呼び覚ます。ひゅーひゅーと鳴る息の音が耳障りだった。息の仕方を思い出そうとするけれど、考えれば考えるほど分からなくなる。けれど、そんな比嘉のそばには、常に佐伯がいてくれた。
「う、あっ、あ……」
「ほら。大丈夫。大丈夫だ、理仁。吸って、吐いて、吸って――」
情けなくて涙が出そうだ。
白くかすんだ視界が元に戻ると、比嘉は自分がべったりと佐伯に抱きついていることに気がついた。ガキかよと己で己を罵る。わざとやるなら許せても、本気で縋るのは比嘉の矜持が許さない。いい年をして何をしているのか。
そう思うのに、背を一定のリズムで叩かれて、愛おしむように髪を撫でられると、しゅるしゅると羞恥が萎んでいく。波立っていた心が一気に宥められる気がして、とうとう涙が滲んできた。
「ごめん……、佐伯さん、ごめんなさい」
「いいんだ。大丈夫。お前は何も悪くない。おかしくもない。つらかった分を、今外に出しているだけだ。それでいい」
「うん」
深く抱き込まれて、比嘉はそっと目を閉じる。つれない親代わりに甘やかしてもらえることだけは、役得といえば役得か。それはそうとして辰巳のことは許さないが。
「食事に行くか?」
比嘉のつむじに唇を落として、佐伯は小さく首を傾げた。さらりと揺れる髪が艶やかで、比嘉はぼんやりと髪の筋に見惚れる。
「食事?」
「狩りと言ったほうが分かりがいいか? お前が行きたければの話だが。腹も減っているだろう」
狩り。その言葉に、むくむくとやる気が湧き上がってくる気がした。
「いいの? 行く行く! やっぱり人間、仕事してなきゃ気が滅入るってもんだよねぇ。佐伯さんも来るの?」
「ああ」
「嬉しいなぁ。ターゲットは、どんなやつ?」
「美しい蝶だ。夫を奪われた正妻が、消して欲しいと依頼してきた」
「へえ。可哀想に」
銃を片手に車に乗り込む。今日は佐伯が運転までしてくれるらしい。比嘉が狩りに慣れていなかったときには、佐伯が毎回引率してくれたものだと思い出し、懐かしい気持ちになった。大人になった今も、食事の間隔が空いたときには時々顔を見せてくれるけれど、こうして最初から最後まで一緒に仕事をするなど何年ぶりだろう。
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