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あなたのために巣を作る
蜘蛛は巣を張り獲物を狩る。黒くて早く、その上強い。だから比嘉 理仁はいつも、仕事のときには黒い服を着ると決めていた。己の呪いにあやかって、うまく生き延びられる気がするからだ。
高級住宅の扉に、比嘉の姿が反射する。
それなりに高い身長に、仕事柄鍛えている体は見栄えが良いけれど、おろした茶髪が目元を覆っているせいで、陰気な印象が強い。昼には犬のようだと親しくしてくれるバイト仲間たちも、今の比嘉を見れば同一人物だとは気づかないかもしれない。
(気付かれたら困っちゃうけどねえ)
錠の開いた扉をくぐり、暗い廊下を進んでいく。
情報集め、ターゲットの見張り、逃走経路の確保。すべての下準備は、あらかじめ他のメンバーの手で整えられている。比嘉の仕事は、実行することだけだ。
寝室のドアを開く。途端に漂う、比嘉にだけ分かる甘い香りに、唾液が湧き上がってきた。 食事は久しぶりだ。今月はずいぶん長いこと、肉を食べていなかった。
「こんばんは」
あいさつすると同時に、ターゲットの男が、裂けそうなほどに目を見開く。怯えさせないようにと優しく声を掛けたのに、意味はなかったらしい。
「ひ……っ! だ、誰だ! 警護は……、誰か、誰かいないのか!」
美しい哀れな蝶が、怯えながら喚く。近ごろ力をつけてきた若手の政治家だと聞いた覚えもあるが、比嘉には関わりのないことだ。
「俺ぇ? 俺はね、比嘉っていうんだ。よろしくねぇ」
「ひい……っ、寄るな! 来るな!」
「怯えないでよ。傷つくなぁ」
ゆらりと部屋に踏み込んで、比嘉は震えるターゲットに手を伸ばす。
「なんで、どうして……! わた、私はうまくやっていたはずなのに!」
「さあ、うまくやれてなかったってことじゃない? 人の妬みは怖いねぇ。死体も残したくないっていうんだから。まあ、俺みたいなやつには、助かるけどね」
はあはあとうわずった呼吸が耳につくと思ったら、己の口から出たものだった。久々の食事に、興奮しているらしい。これでは丸きり不審者だ。口の端から滴るよだれを拭いつつ、比嘉は己の有り様に苦笑する。
「ゆ、許してくれ……」
「ごめんねぇ。でも、ぜんぶおいしく食べるからさ。安心してよ」
にこやかに笑い、比嘉は右手に握った銃を持ち上げる。引き金を引く直前、哀れなターゲットが涙混じりに呟く声がした。
「蜘蛛! バケモノめ……!」
「うん。ばいばーい」
サイレンサーで消音された銃声が響く。美しい男の額から流れる血を目にした瞬間、ぷつりと比嘉の理性は途切れた。
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