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比嘉が閉じ込められていたのは、マンションの一室だったらしい。以前、辰巳とともに映画を見た部屋とは違う、金のかかっていそうな場所だった。他の住民とすれ違うことがなかったのは、せめてもの幸運だったのだろう。
ずっと監禁されていた上、得体のしれない卵の苗床にされて、産まされた。鍛えていたはずの体は痩せていたし、産卵のせいで頭も体も弱り切っている。走るだけで息が切れた。
幸運にも、帰巣本能とでもいうべきものが比嘉にも備わっていたらしい。いつぶりかも分からぬ事務所に駆け込み、そこに座っていた男を目にした瞬間――比嘉は体当たりをするように佐伯に飛びついていた。
「さえきさん、佐伯さん佐伯さん佐伯さん!」
成人男性が飛びついたというのに、佐伯はわずかに体を揺らしただけで、しっかりと比嘉を抱き止めた。震え、泣きじゃくり、まともな言葉を紡ぐこともできない比嘉を、子どものときと変わらず、佐伯は抱きしめ、頭を撫でる。
「おかえり、理仁」
「お、れ゛……帰ってきて、よかった?」
「お前の巣はここだろう?」
いつもこんなに優しくしてくれないくせに、比嘉が弱っているときに限って佐伯は優しい。膝の上に比嘉を座らせ、優しく微笑みかけてくれるものだから、涙腺が馬鹿になったかのように涙が止まらなかった。
「だ、だって、あいつ……、あいづがああ! おれが、面倒ばっかかけるから、みすっ、見捨てられだ、って!」
「捨てるくらいなら拾ってない。馬鹿なことをいちいち信じるな」
蜂はいつだって嘘つきなんだ、と佐伯は内緒話をするように囁いた。思いがけない言葉に、比嘉はぱちぱちとまばたきをする。佐伯は、そんな比嘉を見て、冷たい視線をほんの少しだけ緩めた。苦笑に近い表情に、ますます比嘉はわけが分からなくなる。
「蜂の執着は強い。何度も苗床にしたあげく、腹をやぶって殺すのが奴らの愛だ。嘘も罠も毒も、使えるものはすべて使うだろうよ」
「佐伯さんも、蜂に捕まったことがあるの?」
「ある。……苗床にされるのは、辛かっただろう。おぞましい卵を産まされるのは、気持ちが悪かっただろう。どれだけ苦しく、腹立たしいことか、俺には分かる。よく耐えた」
こんなに強い蜘蛛なのに。そう思ったけれど、瞳をのぞき込めば、佐伯の言葉に嘘がないことはひと目で分かった。
自分たちは同種なのだと、今までのどの瞬間よりも強く感じた。たまらず顔を歪めて抱き着けば、佐伯は同じだけの力で返してくれる。蝶を食う快楽も、どうしたって人ではいられない苦しみも、蜂に苗床にされる痛みも憎しみも、すべて自分たちだけが分かち合えるのだと、心の底からそう思った。
「お前だけが、本当の意味で俺を理解してくれる」
自分が喋ったのかと思った。けれど、声を発したのは佐伯の方だった。くしゃりと歪んだ顔は、見たことがないほど弱って見えて、いてもたってもいられず比嘉は佐伯に口付ける。しっかりと唇を合わせ、離す間際、吐息に交えるように佐伯は問いかけた。
「俺を恨むか、理仁」
助けにいかなかったこと。蜂の罠だと分かっていて送り出したこと。言葉にされない問いかけを理解した上で、比嘉は迷いなく首を横に振った。
佐伯は比嘉に、自分と同じ経験をさせたかったのかもしれない。あるいは言わないだけで、比嘉にそうしたくなるほどの憎しみを抱いていたのかもしれない。なんでもいい。佐伯が言わない限りは、何を考えているのかなど分かりやしない。終わった以上、どうでもいいことだ。
それが、佐伯がそうしたいならそれでいいと思ってしまう比嘉の、馬鹿な恋心だ。そしてそれ以上に――。
「俺は蜘蛛だ。蜂ごときを食えなかったのは、俺が弱くて馬鹿だったから。だから、謝らないでよ。謝ったら、切れちゃうかも。佐伯さんでも食べちゃうよ」
「ああ。……それでいい」
こつりと額を合わせて、二匹の蜘蛛は笑い合った。
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