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大きな一軒家だった。ひとりで住んでいるとは到底思えないけれど、中にいるのはターゲットひとりだというのだから、名ばかりの家族の悲しさを身に感じる。
「まあ、余計に悲しい状況にするのは俺らなんだけどさぁ」
「いや、いやぁ……! 助けて……」
「うんうん、嫌だよね。怖いよね」
恐怖に濡れた瞳を見ると、少しだけほっとする。己が狩る側の生き物なのだと思い出させてくれる。歪んでいる自覚はあるけれど、美しい蝶の怯えた顔を存分に堪能した後で、比嘉はあっさりと引き金を引いた。
「ごめんねぇ」
耐えがたい衝動が湧き上がってくる。飲み込みきれない唾液を垂れ流しながら、比嘉は女の腕に歯を立てた。食事に同行させてくれた佐伯に心から感謝する。理解されているのだと感じてたまらない気持ちになるのは、こんなときだ。
隣を見れば、同じくらい興奮に浮かされた目をした佐伯が、女の頬に飛んだ血に、舌を這わせていた。
「あっは、めずらし。佐伯さん、おなか減ってるのぉ?」
「……食べていなかった。お前がいなかったから」
「んふふ。佐伯さん、寂しがりだよね」
ごりごり、くちゃくちゃ。骨から肉を剥ぎ取り、舌を這わせる姿など、他人が見たら化け物でしかないのだろう。けれど今、この光景を見ているのは互いだけだ。
「おいしいねぇ……、あは、たってきちゃった。佐伯さんも、やらしい顔してる」
血まみれの手を頬に伸ばせば、お返しのように肉片を口に押し込まれる。やがて、引き寄せられるようにふたりは唇を合わせていた。
佐伯のキスは、いつも穏やかで優しい。どこかの蜂野郎のように息まで奪うなんてことはしない。年の功なのか、それとも本人の性格か。どちらにせよ、口内を味わうような緩やかなキスは、比嘉の嫌な記憶を刺激することもないのでありがたい。
「んー? なんか、なんだろ」
苦い。甘美な蝶の味に混ざって、血そのものの奇妙な味がする。確かめるように佐伯の唇を舐めて、比嘉は意地悪く笑った。
「何食べたの」
「……さあ、何かな」
「蜂だな。あいつらの麻酔、苦いからすぐ分かる。ああ、だから口直ししたかったんだぁ」
膝立ちになり、焦点が合わないほど近くで比嘉は佐伯をじっと見つめる。
「どこまで食った? 佐伯さんでも、だめだよ。あれは俺の獲物だ。俺が食う」
比嘉は一度食べた味は忘れない。くそまずい蜂野郎の血肉の味は、不本意ながら舌が覚えていた。
佐伯が目を逸らす。拗ねたような表情は、正気だったらまず見られないものだ。理性の枷が外れてしまうくらい、飢えていたということなのだろう。食事ができなくなるほど、佐伯は比嘉がいないことで影響を受けていたと思うと、ひどく幸せな気持ちになった。
けれど、これはうやむやにされては困る話だ。抱きつきたい気持ちを辛うじて抑えこみながら、比嘉は「佐伯さん」ともう一度促した。しぶしぶといった様子で佐伯は口を開く。
「あれはもう、お前に必要ない」
「それは俺が決めることだよねぇ」
「……腕を一本。報復に」
「報復?」
間近で言葉を交わしながら、固く熱を持ったものを互いにまさぐり合う。服の合間に忍び込んできた手が、手際よく比嘉の服をはぎ取っていく。
「あれはお前に悪夢を植え付けた」
「うええ、やめてよ。気っ色悪い捨て台詞、思い出しちまう」
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