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くちゅりくちゅりと粘ついた音が響く。肉を打ちつける音と、興奮に弾んだ息がそれに混じっていた。弛緩した死体は反応を返すことはないけれど、肉に包まれる独特の快感さえあれば十分だ。暴れない分、死体の方が都合がいいとさえ思う。
「はっ、は……っ」
血を啜り、肉を咀嚼し、動くことのない死体の穴に、興奮で固く反った性器を突き立てる。
比嘉は別にネクロフィリアでもなければ、今さら殺人に興奮するほど初々しくもない。殺し屋が倫理を語るのもおかしな話ではあるが、死体を使って自慰をするなど、死者への冒涜だということも分かっている。けれど、こうでもしなければ、外に出て手当たり次第に人を殺してしまいそうになるのだ。『蝶』に感じる食欲と性欲は深く絡み合っていて、とても自分ひとりで収めることなどできやしない。
比嘉は蜘蛛と呼ばれる人種だった。人間に混じって生きる、少しばかり特殊な人種のうちのひとつだ。
美しく才気あふれる『蝶』。
蝶の血肉でしか命を繋げぬ『蜘蛛』。
蝶から変異し、蜘蛛に対抗する毒を宿した『蛾』。
そして、蜘蛛を母胎に使うことでしか繁殖できない『蜂』。
呪われた四つの人種は、古くから人間に混じって生きてきた。厄介なのは、必ずしも遺伝する性質ではなく、突然発現することもあるということだ。生まれ落ちたときから己の体質に気づく者もいれば、思春期になるまで己が人ではないと気づかぬ者もいる。
比嘉は後者だった。己が蜘蛛であることに気付いたのは、精通もしていない子どものころのことだ。
クラスの同級生が怪我をした。登下校をともにしていた、友人といって差し支えない相手だった。笑顔のかわいい女子で、ほのかな恋心さえ抱いていた。
そんな相手が、あるとき突然、エサにしか見えなくなった。
「いたた……、転んじゃった。……比嘉くん? どうしたの、何か怖い顔してるよ……? いや、いやあ! 助け――」
血を見た瞬間理性が飛んだ。気付いたときには、比嘉は美しい彼女を殺していた。初めて聞いた人の断末魔は、今でも耳にこびりついている。
他人に見られてはいけないと考える理性だけは、幼い比嘉にも残っていた。必死の思いで死体を引きずり、比嘉は森の奥でじっとうずくまっていた。血まみれになった死体の横で、わけも分からないまま興奮に突き動かされて、ひたすらに性器をこすっていたのだ。
幸か不幸か、その森は、死体を埋めにくる危ない業者の私有地だったらしい。
「小僧、何をしている」と声をかけてくれたのが、今の比嘉の上司だった。
佐伯と名乗った上司は、イカれた猟奇殺人犯になるしかなかった比嘉に、居場所をくれた。蜘蛛としての衝動との付き合い方を比嘉に教え、家族からも社会からも離れるしかなかった比嘉を、同じ蜘蛛のよしみだと言って育ててくれたのだ。それ以来、ずっとそばで面倒を見てくれている。
今のように。
「は、はぁ……、ん、う……っ」
「理仁。食い荒らすなと何度言えば分かる?」
冷たい声が、浮かされた比嘉の脳裏に染み込んでくる。理性を飛ばした比嘉に、恐れることなく話しかけてくれる人はひとりしかいない。かぶりついていた腕から口を離して、ぱっと比嘉は顔を上げた。
扉の近くにひとり、そして比嘉の真向かいにひとり。合わせて二人の男が立っていた。
扉の近くにいるのは、いかにも真面目そうな優男だ。見覚えがあるような気がしないでもないが、比嘉の記憶には残っていない。ということはおそらく死体の後始末を担当している者か、そのあたりだろう。比嘉にとって大切なのは、もうひとりの男の方だった。
感情などないかのような冷たい目をした、比嘉にとっては親代わりともいえる男。目元の泣きぼくろと、艶やかな黒髪が色っぽい。何も言われなければ蝶だと思うだろう美しい姿は、今年で四十代に差し掛かるとはとても思えないほど若々しく見えた。
己を見下ろす壮年の男――佐伯の顔を認識した瞬間、比嘉は満面の笑みを浮かべる。
「佐伯さん! 嬉しいなぁ。今日は、佐伯さんも仕事なの?」
「違う。お前が毎度毎度やらかすからわざわざ来ているんだろうが」
「……? やらかす? おれ、うまくできなかった? ちゃんと殺したよぉ。ほら、ね?」
美しい青年の死体から性器を引き抜き、飼い主に獲物を見せるように、比嘉は死体を佐伯に見せた。さっきまでは人の形をしていたと思ったのに、いつの間にか肉塊になっている。比嘉はあれ?と首を傾げた。佐伯の言う通り、たしかに少し食べ過ぎてしまったようだ。今回のターゲットは佐伯によく似た冷たく秀麗な顔立ちをしていたから、余計に気分が昂ぶってしまったらしい。
「ごめんなさい。腹が減ってたみたい。でも、死んでるでしょ」
「ああ。上手にやれたな」
「佐伯さんも一緒に食べようよ」
血まみれの手で、比嘉は佐伯の腕を掴む。そんな比嘉の手をためらいなく取って、佐伯は比嘉の指に舌を這わせた。伏せられた瞼の色っぽさと、指先を辿る柔らかい感触に、ぞくぞくとした興奮が背筋を這い上がっていく。
「質のいい蝶だ」
「ん。うまいよねぇ」
ゆるりと細められた佐伯の瞳の中に、かすかな興奮の色が見えた。
佐伯もまた、比嘉と同じ蜘蛛だった。同種にしか分かち合えない食の快楽を共有できたことが嬉しくて、比嘉はだらしなく頬を緩める。それから、思い出したようにもじもじと足をすり合わせた。
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