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事務所に戻った後で、シャワーを浴びた比嘉は佐伯と向き合ってソファーに座る。血まみれの比嘉に触れていたはずなのに、佐伯は服を変えただけで、シャワーを浴びる気はないらしい。
入浴にしろセックスにしろ、本当の意味で無防備な姿を佐伯は比嘉に見せてはくれない。以前抱かせてくれと迫ったときに、「お前相手にネコはごめんだ」とすげなく断られた事実を、いまだに比嘉は根に持っていた。
(俺相手じゃなきゃネコもするのかなあ。エロいだろうな)
薄着になった佐伯を視姦しながら、表面上は真面目な顔を取り繕い、比嘉は口を開く。
「で? まさかわざわざ俺のお迎えに来てくれただけじゃないよねぇ。何か用事?」
無言で頷いて、佐伯は一枚の書類を差し出した。書類の左端には、ひとりの女性の写真がクリップで止められている。二十代前半といったところか。目の覚めるような、美しい女性だった。長い黒髪に和装をしていることも相まって、日本人形のようだ。
「わあ、美人さんだ。蝶?」
「次の標的だ」
「もう次くれるの? 食べたばっかりだってのに、ありがたいねえ。それで、まだ若いのに、この美人さんは何したわけ? 蜘蛛に差し出されるなんて相当だろ?」
「後ろ暗い商売に手を出したらしい。中御門家の怒りを買ったと聞いている」
「中御門……って、蜂の家系だったっけ?」
首を捻りながら思い出す。蜘蛛や蝶のように特殊な人種の中でも、蜂というのは最も人外に近い人種だ。……というのが比嘉の印象である。
何しろやつらは遺伝で増える。恐ろしいことにその苗床は例外なく蜘蛛であり、おまけに卵で増えるという噂まであるのだから、蜘蛛の比嘉としては間違っても関わりたくない相手だ。
「げー、やだなあ。俺依頼人とは会いたくない。蝶はうまそうな香りがするから分かるけど、蜘蛛も蜂も匂いしねえんだもん。なのに蜂は蜘蛛のことが分かるんだろ? ずるじゃん。がぶーっていかれそうで怖いよ」
「安心しろ。依頼人もお前のように頭のネジの飛んだやつとは会いたくなかろうよ」
「ひどいなぁ。でもさあ、後ろ暗いってことはクスリかなんかだろ、どうせ。お偉いさんの依頼なのはいいけど、俺たち大丈夫かな? トカゲの尻尾切りみたいにならない? 危ない人たちが後ろにいたりしない?」
「いたとして、お前には関係のない話だ。いつも通り、お前の仕事は実地だけなのだから」
「それもそうだ。まあ、佐伯さんがやれっていうならやるよ。あんまりやりたくないけど……」
渡された書類を手に取って、比嘉はしげしげと写真の女性を眺めた。蝶は皆、整った造形と人を惹きつけるカリスマ性を持っている。大抵が優しく調和する性根を有しているというのに、それでも妬み恨みを買ってしまうのだから、社会というのは怖いものだ。
「一応聞いておくけど、この美人さん、本当に蝶だろうな? 蛾じゃないよね? 蜂ってその辺分からないんだろ? 俺まだ死にたくないよぉ佐伯さん」
「依頼人からは蝶と聞いている。調査結果も蝶だ」
「食ってみるまで蝶か蛾かって蜘蛛も分からねえのがなあ、怖いよな。蝶なら分かるんだっけ。教えてくれないかなぁ。だめか。蝶見ると食いたくなっちゃうし……。あ、蛾ってうまいのかな?」
「蝶よりうまい。この世のものとは思えないほど」
「食ったことがあるみたいに言わないでよ。食ったが最後、死ぬんだろ。俺知ってるもん」
ぱっと書類を放りながら言えば、ぎろりと佐伯は比嘉を睨んだ。慌てて比嘉は書類を拾い、机の上に丁寧に置く。佐伯は物の取り扱いにはうるさいのだ。
「いい年をした男が何をかわいこぶっている。いくつになったつもりだ」
「二十三歳でぇす。かわいく育っただろ? 心配しなくたって、ちゃあんと独り立ちできるように頑張ってますー! ところで佐伯さん、この後、時間ある?」
向かいに座る佐伯の頬に手を伸ばす。現場で一度抱かれはしたが、あれでは到底収まらない。誘いをかけるつもりで微笑んでみせたが、佐伯は比嘉の手をすげなく振り払った。どうやら佐伯は不機嫌らしい。気に障ることを言った覚えもないのに、と比嘉は首を傾げる。
「発情期の犬か? 他を当たれ」
「ひどいなぁ。キスもオナニーもセックスも、全部佐伯さんが教えてくれたんだから、一回くらい抱かせてくれたっていいのに。あ、もちろん俺に突っ込んでくれてもいいよ!」
「付き合ってられん。次の仕事は二週間後だ。準備しておけ」
「はぁい」
くすんくすんと鼻を鳴らしつつ、比嘉は事務所を出ていく佐伯の背中を見送った。相変わらずつれない上司である。ここが事務所だと教えてはくれたし、ここに来れば会えるとは知っているけれど、住んでいる場所どころか下の名前さえ教えてくれないのだから、冷たいにもほどがある。
そんなミステリアスなところも素敵なのだが。
「せっかく抱いてもらえたし、他で上書きすんの、もったいないよなぁ……」
何しろ拾ってもらったときからの想い人だ。手の感触も唇の感触も、突っ込んでもらったものの太さも固さも忘れたくない。記憶が新鮮なうちに、大人しく右手で宥めるとしよう。ふらりと立ち上がった比嘉は、上機嫌に鼻歌を歌いながら、狭い寝床へと消えていった。
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