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最中に相手を放り出してまで駆けつけたというのに、何事かと聞けば、なんてことはない誤タップだった。その上、佐伯の機嫌が謎に底辺をさまよっており、比嘉は臭いと罵倒された挙句、背中を叩かれ追い出された。愛がない。
まあおかげでちょっとばかり負担の大きい火遊びから逃げることができたので、比嘉に佐伯を責める気持ちはない。
「やっぱなー、遊ぶ相手は選ばないと危ないよねぇ」
「比嘉さん、また何かやったんすか」
約束の二週間後。仕事に向かう途中の車で、比嘉は同僚につらつらと愚痴をこぼす。
「まだやらかしてねえよ。なーんか思い返すとやばそうなやつだったかも?って思っただけ。気ぃ合いそうだと思ったのになぁ。ヤらないお友だちのままでいりゃあよかった」
「あんまりヤバいやつ釣ると、佐伯さんに怒られますよ」
「分かってるよ。今もこうやってエサ手配してもらってる上、住む場所までもらってんのに、これ以上迷惑はかけないって」
「天引きされてる給料をちゃんともらえばいいでしょうに。蜘蛛って言ったって、どうしても食人しなくちゃいけないわけじゃないんでしょう。普通に飯食って一般人のふりして生きたらいいじゃないですか」
「今さら無理だよ。佐伯さんみたいなちゃんとした蜘蛛ならそれでも生きていけるのかもしれないけど、俺は衝動が強くて、肉食わねえともたねえの。誰彼構わず殺すより、まだ蝶に犠牲になってもらう方がましだろ。でも、俺もそろそろ独り立ちしねえとなあ……」
いつまでも佐伯という親蜘蛛の巣を間借りしているわけにもいかない。いい加減己ひとりでも獲物を狩って、犯罪者として捕まることなく生きていけるようにならねば。
「まあ、まずは目の前の仕事からだよね」
暗闇で停められた車から、人目を忍んで降りていく。ひらひらと手を振れば、運転手は苦笑しながら返してくれた。
「お気をつけてどうぞ」
「うん。帰りもお願いねぇ」
いつも通りだ。決められた場所。決められた時間。整えられた手筈。寝室に忍び込み、銃を突きつける。唯一違ったのは、怯えた顔をして比嘉を見るはずのターゲットが、まるでほっとしたかのように微笑んだことだった。
「ああ……、私ひとりの命で納めていただけるのなら、こう生まれついたことにも意味があったのでしょうね」
こちとら天使でもなければ死神でもないぞ。
そう言ってやるのも忘れるほど、死の間際に笑う女は不気味なくらいに美しかった。
「――はーっ、はあ……っ、はぁ」
引き金を引く。おもちゃのように女の体が跳ねる。数回痙攣した後で、静かになった。真っ白な顔を真っ赤な血化粧で染めてやったら、女はなおさら美しく見えた。
鼻をくすぐる血の匂いが、心地よくてたまらない。ぼたぼたと唾液が垂れて、行儀が悪いと分かっているのに食いつかずにはいられなかった。
(ああ、佐伯さんに怒られる。味見をして、絶対に蛾じゃないって分かるまで、食い荒らさずにいなくちゃいけなくて――)
「むりだよぉ、こんな、おいしいのに」
甘えて狂った反吐の出そうな声が、己の喉からこぼれ落ちる。二週間前に食べたばかりなのに。エサの香りはいつだって比嘉を狂わせて、人間のふりをできなくさせる。我慢の限界だった。ぐるる、と喉が奇妙な音を立てる。
「ひとくち、だけ」
言い訳にもならない言い訳をして、比嘉は女の指にかじりつく。
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