家族法

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家族法

     1    「おいみのり、ソース取って」  多田が言うと、彼の向かいに座った娘のみのりは、軽く面倒そうな顔をした。  と、すぐに、 「タルタルソースがついてるのに」  と、隣にいる妻の理子が口を挟んだ。 「俺は、鮭のフライにはソースがいいの。ほらみのり」  仕方なさそうにみのりは椅子を立つと、キッチンの引き出しの中からブルドッグソースを取りだしてきて、ドン、と音を立てて多田の前に置いた。 「……」 「ねえ、フライどう? 美味しい?」  理子は少し気にするように多田の顔を見たあとで、椅子に座り直したみのりにそう聞いてみた。 「うーん……」  首を傾げ、仏頂面でそう答えたみのりは、もう一度箸を取ると、黙って茄子と玉ねぎの入った味噌汁を啜った。  理子は軽く呆れた顔をすると、またチラリと多田の顔を見た。多田は、わかった、というように、小さく二度ほど頷く。 「……おいみのり。昨日算数のテストあったんだろう。どうだった」  ブルドッグソースをフライにたっぷりと回しかけながら、多田がそう聞いてみた。みのりは今年、小学五年生に上がったばかりだ。  聞かれた当のみのりは、ムスッとした顔で添えられたキャベツの千切りを大盛り箸でつまんで口に入れている。 「テストぉ?」 「うん」 「だから、」 「……」  多田は呆れて、じっとそんな娘の顔を見つめた。理子が俯いて、額の生え際を爪先でぽりぽりと掻いている。  リビングのテレビに顔を向けたみのりは、口に入れたキャベツをシャクシャクと音を立てて噛んでいた。それからグラスの麦茶を半分ほど飲む。 「ねえ」  ふいに二人を交互に見交わすと、みのりが言った。二人はギョッとする。 「何」 「思ったんだけどさ。キャベツの千切りって、なんかって感じしない?」 「……何よそれ」  多田の顔が、にわかに険しくなる。 「私、ああいうのがいいな」  言ってみのりは、テレビの画面に目を向けた。多田と理子の二人の視線は、そのテレビの画面に吸い寄せられる。そこでは旅行番組のようなものが流れていて、イタリアの南部地方だか、ギリシャかどこだかの、家庭料理のようなものがクローズアップで映し出されていた。  さる田舎町のマンマらしき人物が、魚と野菜の煮込みのようなものを身ぶり手ぶりを交えて紹介している。その料理に、日本人の女性タレントが大げさに舌つづみを打っていた。 「ほら。ああいうのって、なんかって感じ、しないじゃん」 「あのねえ、みのり」  たまりかねた様子で、そう口を開いた理子と同じタイミングで、多田は椅子から立ち上がるとリビングのソファの上にあったリモコンをつかみ取り、そのテレビを消した。  途端にみのりが、ジロリと多田の背中を見る。  気詰まりなほどの静寂が、部屋全体に広がっていった。  ……まったく。さっきからばっかりじゃないか。  多田は苦々しく思った。  最近の、娘の口癖なのだ。なにを聞いても一言目、二言目には、と口にする。  近くの踏切の警報の音が、テレビを消したそのにわかな静寂のせいで、かすかにここまで響いてきていた。京王線のT駅にほど近い、各駅停車の電車しか止まらない、小さな駅が最寄りの建売住宅である。  清水の舞台から飛び降りるようなつもりで、三十年ローンを組んで購入してから、まだ一年足らずだ。新築の家特有の、あのどこかよそよそしい感じも、わずかに残っている。  多田が自分の椅子に戻ると、みのりの表情がさっきより、いくぶんか硬いものに変わっているのに気がついた。黙ってテレビを消されたことに対して、何か得体の知れない反応をするのではないかと、内心気が気でない。  しかし決してそんな心中の動揺は表に出すことなく、彼は椅子に座りなおすとそのままむっつりと、石のように黙り込んで食事を続けた。  そんな多田と、あくまで澄ました顔でいるみのりを、理子が箸でおかずをつまみながら困ったように見交わしていた。 「ねえお母さん」 「何?」 「うちってさ、だよね」  口にものを入れようとしていた多田の手が、そこでピタリと止まった。 「どういうことよ」 「だからぁ……は、」  甘ったるいような声でそう言うと、みのりは勝ち誇ったような顔でチラリと多田を見た。それから何事もなかったかのように食事を続けた。  多田は苦しげに何度か咳払いを繰り返すと、食事の時は他ごとをせず、ただ食事だけしろと常日頃言っているのを忘れて、尻を椅子の上で軽くいざらせ足を組んで、手元の新聞を広げた。 「……お母さん、おかわり!」  してやったり、といった顔のみのりは、ご飯のお碗を理子に向かって元気よく突き出した。理子が新聞に隠れた多田の横顔を見ると、その表情はいやに深刻なものに変わっていた。                           2             K市役所前の広場の噴水が青空に向かって高く高く上がり、キラキラと光を跳ね返している。  そのさまを、同僚の廣松と並んでベンチに座り、膝の上に弁当を広げた多田はぼんやりと眺めていた。 「……ふうん。ねえ。それはでも、なかなか傑作じゃないか」 「傑作なもんか」  ふてくされた顔で、多田が即座に答えた。 「で、それで? 結局どうなったんだ」  廣松が、多田の話の続きを促した。そんな廣松を、彼は恨めしそうな顔で眺めている。  彼が食事しながらした、その昨晩のみのりに関する一連の話を、廣松は時折苦笑いを浮かべながらも、終始楽しげに聞いていた。  でもべつに、相手を楽しませるため、こんな話をしているわけじゃない。 「……だから、それで困ってるんだって」  あたかもなにかの言い訳のようにそう言いながら、多田は自分の弁当の中身を意味もなく、箸で繰り返しつついていた。途端に廣松が変な顔をして見せる。 「困るって、いったい何を困るっていうんだ。そんなのただの子供のたわごとじゃないか」 「いや。俺は、そうじゃないと思うんだ」  多田はひどく深刻な顔になると、そのまままた考えこみ始めた。廣松の顔が、少し困惑したものに変わる。  昼休みの時間、二人の頭上には、梅雨の晴れ間の真っ青な空が広がっていた。(ぬる)くはあるが強い風が、敷地内のケヤキを揺さぶり大きな葉ずれの音をさせている。  彼らのすぐそばには、二台の乳母車を止めた保育園の園児たちと若い保母二人が休憩していて、光できらめく噴水を歓声とともに見上げていた。 「要はその娘に、我が家はなんだ、って喝破されたとき……自分はちょっとしたを感じた、ってことなんだよ」 「……?」
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