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「ああ、いえ」
多田が恐縮してみせると、妻はもう一度軽く会釈を返した。そして、じゃ、と一声かけると、ペッシュを小脇に抱きかかえたまま、家の中に入っていった。
その間、妻の腕の中のペッシュが、舌を出して鼻を舐めながら、多田の方を不安げに振り返っていた。
「……」
家の扉が閉まるまで、多田はその場で彼らを見送った。
6
夕食を終え、多田が湯呑みでお茶を飲みながら新聞を広げていると、理子が、
「ねえ少し、話があるんだけど」
と言った。
多田は軽くぎょっとした。
今の季節、特に年中行事は予定はしていなかった。来たるお盆に、家族で川崎の実家のお墓参りに行くくらいのものだ。
みのりはさっさと食事を済ませると、とうの昔に自分の部屋に引き取っていた。耳をすますと、かすかに天井の向こうのみのりの部屋のあたりから、何か音楽のようなものが聞こえてくる。
よく聞くと、それはどうやらビートルズの「ペニーレイン」のようだった。その曲が終わり、すぐ次に「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が始まった。
ということは、どうやら聴いているのは「マジカルミステリーツアー」ではなく「青盤」の方らしい。
自分は自他共に認める、ちょっと気狂いじみたようなビートルズファンだが、別にこちらかから聴くように勧めたわけでもないのに、不思議なものだな、と多田は思った。
読んでいた新聞を畳んで置くと、多田の前の椅子に理子は自分の湯飲みを持って来、腰を下ろした。
大きくなってきたお腹を大義そうに、彼に向ける。
「何だよ、話って」
自分のお茶を啜りながら、多田が聞いた。理子は何も答えずに、まずは自分も一口、お茶に口をつける。
それから、しばらくの間、目を伏せて黙っていた。
みのりの部屋からは、ビートルズの曲が流れ続けている。
理子がこのように、彼に向かって妙に改まった態度を取る時は、たいていその後悪いニュースか良いニュースか、そのどちらかが告げられるのが常のことだった。
多田は、ちょっといぶかしく思った。
「なんだよ。またあいつのまあまあ、が始まったか」
この会話は、多田家におけるだけの符牒のようなものだな、と多田は思った。理子は顔を上げると、しばらくじっと多田の顔を見つめてから口を開いた。
「あのね。やっぱりりのの手術、してあげない?」
「えっ」
途端に多田は拍子抜けした。指先で頭のつむじのあたりをポリポリと掻く。
と、すぐにも別の頭が回り出した。彼はじっと、目の前の理子を見つめ返した。
以前に二人でそのことについて相談をした時は、それでよし、と結論を下したはずなのだ。
理子は性格的にも、そう簡単に意見を覆したりはしないはずだ。
多田は妙に思った。
「でも、どうしたんだよ急に」
そのとき、みのりの部屋の音楽のボリュームが少し上がった気がした。多田は一瞬天井に向かって目を向けた。
「だいたい、いったいどこにあるんだよ、そんな金」
いきおいそう正すと、理子は両手で湯飲みを包み込んだまま言った。
「私のへそくりで、なんとかするつもり」
「へそくり?」
そんなものの存在を、彼はつゆとも知らなかった。口を開けて呆れ、椅子の背もたれにもたれると、顔を両手でゴシゴシとこする。
「でも、そのことは黙っておくからさ。お父さんが、って、言っておくから」
……そういうことかと、多田は思った。
彼は座ったまま体を伸ばし、もう一度天井の上のみのりの部屋のあたりを見上げた。まさか娘に、この会話が聞こえているわけがない。しかし、まるで何か巨大な腫れ物がこの家の中にドクドクと脈を打ちながら存在しているような、そんな気がしてならなかった。
そんな多田の前で、理子がいやに真剣な顔で、うつむいたままでいた。
「なんだよ、どうした。まだ何かあるのか?」
理子は軽く鼻をすすってから言った。
「実は少し前からね……ちょっと気になることがあるのよ」
「気になること?」
理子は少し言いよどんでから、決心したように口を開いた。
「みのりが最近、首筋のあたりがしきりに痛いって言うの」
「首筋?」
「そう。首から……背骨のあたりにかけて? で、もしかしたら白血病の兆候じゃないかと思って」
「……はっ? はっ」
彼は絶句したまま、理子を見つめていた。理子は慌てて、両手を彼に向かって振る。
「もちろん、まだわからないわよ。でも怖いから、今度病院に連れて行こうかと思って」
「……」
それから理子は、りのみの手術のことに関しても、半分はその験担ぎでもあるのだ、とあらためて説明した。
みのりの部屋から聞こえてくるビートルズの曲は、いつしか「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」に変わっていた。
多田はそれ以上、何も答えることが出来なかった。
翌朝多田は、みのりが洗面所に入ったのを見計らうと、自分も中に入った。セーラー服姿のみのりは、すでにそこで歯を磨いていた。
多田も自分の歯ブラシを手に取る。
歯磨き粉が見当たらずに探していると、不機嫌そうな顔をしたみのりが正面を見ながら、黙って後ろ手で彼に手渡した。
「……ああ。サンキュ」
毛の広がってしまった歯ブラシの上に、不必要なほどたっぷり歯磨き粉を練ると、多田はみのりの背後で歯を磨きながらその首筋のあたりをじっと眺めた。
着ているセーラー服の襟から、うっすらと産毛の生えた白い肌がのぞいていて、そこに背骨が浮き出ている。
多田は、一瞬息を飲んだ。
「……今日も走るの?」
歯磨き粉の泡と、半開きの口のあいだから突然聞こえたみのりのその言葉に、多田は一瞬反応できなかった。
「えっ? 何?」
「だから、今日も走るのか、って聞いてるの」
この日、多田は有休消化で仕事は休みだった。
「ああ、今日か。さあ、どうしようかな」
ペッ、とみのりは口の中のものを吐き出すと、水の入ったコップを取ってガラガラと口をゆすいだ。そのせいで、みのりの頭のつむじが多田の口もとのあたりにくる。
「あのさ。別に、もういいよ。いろいろ無理しないでも」
多田の歯ブラシを動かす手が止まった。
「全部わかってるんだから」
みのりは多田と目を合わせずそう言うと、首にかけていたタオルでゆすいだ口を拭った。
多田が再び歯ブラシを動かし始めると、その場から逃げるようにみのりはキッチンに向かった。朝食の準備をしている理子に何か話かけていくと、その姿はすぐに見えなくなった。
彼は、いつしか口元から流れ出ていた唾液と混ざった歯磨き粉の汁をシンクに吐き出すと、その口元を手で拭った。
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