家族法

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 廣松は目を丸くさせて驚いた。 「というのは、ちょっと穏やかじゃないな」  穏やかじゃない、などと言いながら、彼はいまにも吹き出してしまいそうだ。多田は小さく肩を落とすと、幾度か咳払いしてから話を続けた。 「つまり俺はその一人娘から、父親としてのある種の価値評価を下された、ってことに、ならないだろうか」 「価値評価ぁ?」  廣松は眉をひそめた。それから遠慮なく、顔を歪めて苦笑いする。 「だって、そうじゃないか」 「いや、しかしなんだかその小学生の娘さんが、多田家の環境アセスメント役のようだな?」  廣松が言えた、とばかりに楽しげにそう呟いた。そう、それだよ、と多田も、繰り返し箸で廣松を指して同意してみせる。それからソースでひたひたになった弁当のおかずの鮭のフライを、箸でつまんで口に入れた。 「でももし俺が、そのときのお前の立場だったなら、その時点でピシャリと叱りつけてるとこだ」  多田は急に黙り込んだ。ただ口の中のものを黙って咀嚼(そしゃく)する。 「どうも昔から、そういうことが出来ないたちでね」 「だったらなんだよ。その娘さんは、逆にどんな生活だったらじゃない、って言うんだ」 「さあ。でもそれこそ、ディズニーランドのシンデレラ城みたいな家に住めりゃ、それで満足なんじゃないのか」  話にならん、といった様子で、廣松は手にした菓子パンを鼻息荒く齧った。 「だろうが何だろうが、奥さんがそうやって毎日お弁当渡してくれるだけでも上等なもんじゃないか。え? 羨ましいよ。うちなんてーー」 「いやこれ、昨日の夕メシの残りだぞ」 「そんなことは、どうだっていいんだよ」  廣松は、近くにいたあどけない保育園児たちに向かって目を細めた。そして「あれくらいの子は、そんなこまっしゃくれたことは微塵も考えないのになあ」などと思い深げに呟いた。そろそろ休憩を終えた園児たちは、次々と二人の保母に抱え上げられると乳母車に乗せられ、近くの保育園へと帰り支度を始めている。  「で……それで? お前はいったい、どうしたいって言うんだよ」 「そこなんだ」  多田がにわかに、軽く身を乗り出した。廣松がまた眉間に皺を寄せる。 「このままあの一人娘に偉そうに、そんな風に言われっぱなしじゃあ、父親として立つ背がないだろうじゃないか」 「そりゃまあな」  廣松は、ようやく得心のいった様子で、 「その気持ちは、よくわかるよ。しかしお前の奥さんも、その娘さんのことを心配してるんだろうな」  正直多田は、これまでにこのことを、面と向かってこのように、自分の妻に相談したことはない。  ただなんとなく、この問題に関しては互いに認識しあっている、といった程度だ。  それに、もしも妻に対してそうしたなら、その時点でなにか敗北感のようなものを感じてしまうのではないかと、くだらない自尊心ながら、彼はつい、気が引けてしまうのである。  これはあくまで、一家の(あるじ)としての自分と娘との問題なのだ。そんな気が、強くしている。  別に自分は、K市の公務員たるおのれや、その生活に対して引け目や負い目を感じているわけではない。  妻たる理子は理子で、彼女なりにいろいろ気を回している様子だ。食事の内容なども、いろいろ豪華に見えるよう工夫したりして。  多田は昔から、考えないでもいいようなことをつい、考えないでもいいときに、どこまでも深く考えてしまう。そんな癖があることを、彼女はよく知っているのだった。 「……で、この俺に相談っていうのは?」  廣松にそう促され、多田はまた真剣な顔で彼を見た。 「奴の鼻をあかしてやるために、何か具体的ないい方法はないものか、と思ってね。考えてるんだ。もしうまい方法があれば、アドバイスをくれないかな」  多田のその本気そのものな顔に、廣松はついまた笑い出したくもなった。が、なんとか自重する。手についた菓子パンの粉を払って落とすと、腕組みをしてしばし考え込んだ。 「そうだなあ」  さっきまで近くにいた保育園児たちが去って行った後、彼らの周りには人気はなくなっていた。頭上のケヤキの葉が相変わらず風に揺れている。  多田は鼻をすすって、廣松が何を言いだすかをじっと待っていた。 「まあ要するに、その娘さんの目先を、ちょいと変えてやればいいわけなんだろう」  と、廣松はパン、と音を立てて膝を叩いた。 「そうだ」 「なんだ、なにか閃いたか」 「そういやお前んとこって、犬飼ってたか」  「……犬?」  唐突なその物言いに、多田は目を一瞬丸くさせた。  「いや」 「だったら、そいつでも飼ってみたらどうだい」 「……」  期待はずれ、とまではいかない。  が、あまり説得されない様子で、多田は首をかしげていた。 「犬ねえ」 「ちょっと、子供騙しかな。でもさっきからお前の話を聞いてると、確かに言う通り、我々のようなしがない公僕に、ある日突然でなくなれ、ったって、それは難しいよ。悪いけど、俺には犬ぐらいしか思いつかんなあ」  多田にはだんだんと、その廣松のアイデアが、なかなか悪くないようなものに思えてきた。何よりそれなら自分でも、なんとか初期投資もまかなえそうだ。それに元々娘のみのりは、無類の動物好きなのである。  むしろ、今までに向こうから、そのようなことを言い出してこなかったのが、逆に不思議にも思われてくる。  もっとも、それもな一家の極まりない(あるじ)に対して、ただただ敬して深く遠慮をしていただけだった、そんなことなのかもしれない。 「おい多田」  そんなふうに、さまざまに思いを凝らしていた多田に、廣松が言った。 「一つ、お前にいいことを教えてやろう」 「いいこと?」  多田は眉をひそめた。 「ああ。お前、ゲーム理論って知ってるか」 「……ゲーム理論?」  この同僚であり友人の廣松には、常日頃から軽い衒学(げんがく)趣味のようなものがあった。そういう小難しいことを言って、人を煙に巻くのを無上の喜びだと思っている、そんなフシがある。  またいつものように厄介なことを言いだすんじゃないかと思って、多田は軽く身構えていた。 「知らないな」 「つまりね。いいか簡単に言うとだな、今お前と娘さんが家の中でやってることを、一種のゲームだと捉えてみようよ」 「ゲーム?」 「そう。となるとだな、お前たち二人が、それぞれそのゲームのプレイヤー、ってことになるよな。わかるか」 「……」  ちょっと理解しかねる。そんな顔を多田はしていた。
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