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「まあ……なんとなくは」
「であるなら、そのゲームをする以上、プレイヤーはそれぞれ独自の戦略を持つはずだよな? 自分の頭を使ってさ。当然だろう」
「うん」
「そこでだ。その、それぞれの手のうちのカードを互いに自由に切ってゲームを進め、納得いく利益を上げられるような状態を、ナッシュ均衡というんだ」
奇妙な横文字が出てきた途端、多田は渋い顔をした。俺はこれでも一応経済学部出身だからな、と廣松は、即座に胸を張る。
「これはミクロ経済学の、基本のキなんだぞ」
「まあわかったから。それで?」
「で、ここがポイントなんだ。いいかい、そのゲームが、たった一回こっきりの刹那的なものだと、そのナッシュ均衡というものが、互いに自分のことだけ考えて保身に走ることで、果たされる場合がある」
「ちょっ。ちょっと待ってくれ」
多田は、必死にその理屈を理解しようと努めた。普段からあまり本を読むことのない彼にとっては、突然味わったことのない奇妙な香辛料でも頭から振りかけられたような、そんな思いがする。
「でもね、反対にそのゲームが無限回繰り返されるようなものだと、むしろ相手と協力しあった方が、互いに得する状態になれるんだな。それをフォーク定理、という」
「つまり、何が言いたいんだ」
多田の声が、ついうわずっていた。廣松は、一度咳払いをしてから続けた。
「要するにさ。家族っていうのは、基本的には死ぬまでずっと続くものだろう? だったら、お互いに歩み寄りをした方が、最終的には結果は良い、ということだよ。何も、お前のとこだけじゃないぞ、家の中に問題があるのは。うちだって、いやどこだって、似たようなものさ。俺だって、自分の子供をただ叱りつけてるばかりじゃない。もしそうしたいとこっちが一方的に思った時は、俺はいつも、このフォーク定理のことを思い出すようにしてる」
廣松は、鼻の穴を広げて得意げな顔をしていた。だが多田は何となく、煙に巻かれたような気分でしかなかった。
さっきから箸を進めるものの、もうすっかり食欲がなくなってしまっていた。弁当の中身は、まだ半分以上残っている。
それまで何も考えずに、その弁当を口にしていた彼だったが、そのときふと、いつもと何かが違うことに気がついた。
普段は味気ないただの白飯が、その日は何故かおかかのりと昆布で二重になっている。
彼は、昨晩の理子の心配そうな顔を思い出した。
「どうだ。ちょっとは参考になったか」
廣松が菓子パンのゴミをまとめながら言った。まあとにかく、難しい屁理屈は自分にはよくわからないが、やってみるだけの価値は、あるかもしれない。
「ありがとう。ちょっと考えてみるよ」
「健闘を祈る」
そう答えながらも、廣松は軽く心配げな顔で多田を見つめていた。
とりあえず今日帰ったら、これから我が家で犬を飼う話を二人にしてみよう。そう多田は思い決めると、もう一口弁当のご飯を口に入れた。
3
いろいろ悩んだあげく、結局いつものユニクロの紺色のポロシャツに袖を通し、適当な短パンを履いた多田は、手にした腕時計をぶら下げながら寝室からリビングへと出ていった。
「みのりは?」
エプロンをつけた理子から渡された財布を、クラッチバッグの中に入れながら多田が聞く。
理子はさっきから、一人苦笑いをしていた。
「見てよ、ほら」
言って、玄関に向かって顎をやった。とスニーカーを履き終えたみのりが、リビングにいる多田に向かって何度も手招きしているのが見える。
「ねえ、お父さん早く!」
みのりはもう、いてもたってもいられないような、そんな様子で叫んでいた。
「まったく現金なものよねえ、子供って」
理子はそう囁くように言った。
「ああ、ちょっと待てよ」
そう声をあげ、手もあげると彼は、テーブルの上にあった鏡でこの頃めっきり白髪の増えてきた頭を整えた。四十台前半にも関わらず、生え際などはもう真っ白になっている。
「あんなにはしゃいじゃって。よっぽどこれから、うちで犬が飼えるのが嬉しいのね」
理子が多田と一緒に鏡を覗き込みながら、彼と目を合わせて言った。
「ねえ、ずいぶん髪が伸びたわね。ついでに散髪でもしてきたら?」
鏡を見ながら彼は繰り返し、流した前髪を額に撫でつける。
「そうだなあ」
「ゆっくりしてきてくれていいからね。久しぶりの一人娘とのデートでしょ」
多田は軽く言い返してやりたいのを押し殺して、ただ指先で口元を掻いた。
みのりはとうの昔に、家から外に出てしまっていた。扉の脇の曇りガラスのその向こうに、傘立てと一緒にぼんやりとしたその姿がある。
「じゃあ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
理子に見送られながら、多田はローファーに足を通すと玄関を出た。
扉を開けて外に出てみると、みのりはもう家の前から数メートル先の電柱のあたりにいて、彼の方を飛び跳ねながら振り返っていた。
「遅いよお父さん」
「……ああ、すまんすまん」
早足になって追いつくと、すぐにもみのりは機嫌を直して、後ろ手を組んで歩きながら鼻歌を歌いだした。
ようやくになって、梅雨明けが宣言されたばかりの爽やかな初夏の陽気だ。強い日差しが額に斜に照りつけてき、ことさらに眩しい。
えのころ草の生えた線路沿いの道を二人で歩きながら、みのりが多田の方に顔を向けた。
「ねえお父さん。どこにあるの、そのペットショップ」
多田は行く先に目を細めながら、
「新宿だよ。西新宿。都庁の近くだ」
「オッケー」
軽やかにそう答えると、みのりはさらに早足になって先を行こうとした。その娘の小さな背中を、多田はじっと目で追う。
「どうしたの」
急にみのりが、立ち止まって言った。
「ん、ああいや。何でもない」
「変なの」
すぐに前に向き直ると、みのりは正面からやって来る、杖をついた老婆にこんにちわ、と挨拶をした。
「ほらみのり。そこの角、右だぞ右」
「わかってるよそんなこと」
京王のS駅は、多田の自宅から歩いて五分くらいの距離にある。みのりはもう一度後ろ手を組むと、周囲に目をやりながらさっきと同じ鼻歌を陽気に口ずさんだ。
どこかで聞き覚えのある、甘ったるいJーPOPのメロディ。その左右に揺れるおさげに結った髪の、後頭部の分け目にある一本の筋を眺めながら、多田は先日、初めて理子とみのりに犬を飼う話をしたときのことを思い返していた。
まさか廣松に仕込まれたゲーム理論のことなどは、おくびにも出さないでおいたが、理子は彼のそのいささか唐突な提案を聞くと、
「まあ、いいんじゃないの」
とだけ答えて、反対などはしなかった。とはいえ、特別賛成もしなかったのだが。
でもそれ以上、理子は何も言わなかった。
妻は、昔からそういう性格なのだ。
一方娘のみのりの方はと言えば、まさに彼の予想した通りの、手放しの喜び方をしてみせた。確かにそのとき、若干の苛立ちを感じなかった、と言えば嘘になる。
彼の思ったとおり、極めて一般水準の、まあまあの我が家でこれから犬を飼おうなどとはなかなか言い出せずにいた、とみのりはその後、何の遠慮もなく口にしたのだ。
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