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……でもまあ、とにかくこれで、うちがまあまあだ、などとは言わなくなってくれるんだから。
彼は、そう強いて納得することにした。
「あっ、ほらお父さん早く! 電車が来ちゃう」
みのりが慌てたように、もう一度彼の方を振り返って言った。新宿方面へと向かう車両が、ゆっくりと正面の方から近づいてくるのが見える。
「大丈夫大丈夫。そのまま真っ直ぐな」
「だからわかってるって」
それにしても、その話し合いのときのことで、多田には一つだけ引っかかったことがあった。
これから我が家で初めて犬を飼ってみる。それはいい。ではいったいどんな種類の犬を飼うのか、という段になったときのことだ。
おそらく、そのときは無意識に発したのだろう、みのりのその言葉が、今も多田の心の中にずっと、棘のように残り続けていた。
当初から多田は、小型の室内犬ならなんでもいいからと、みのりに好きに選ばせるつもりでいた。みのりは多田のノートパソコンの画面の前で嬉々としながら、テリアやミニチュア・ダックスフンド、チワワなどとさんざん迷った挙句、最後に、
「私、パグがいい」
と言った。
パグか。
「うん、ダメ?」
多田はみのりと目を合わせた。
いや、別に、自分はパグという犬種に対して、特別どうこうということはなにもない。
なにもないのだが、しかし何となく、
「どうして、パグなんだ」
と彼は、その理由を聞いてみた。
すると、みのりはそのときポツリと、こんな妙なことを言ったのだ。
「なんとなく、自分に似てるから」
ね、いいでしょ、私これに決める。そう言いながらみのりは、多田と理子の顔を見交わした。
「お前は、どう思う」
彼は理子に向かって、そう聞いてみた。
「まあ別に、いいと思うけど? パグ、可愛いじゃない。私も好きよ」
「ならまあ、そうするか」
「本当? やったあ!」
結局、話はそのようにまとまったのだった。しかし彼は、嬉しそうな顔で喜ぶそのみのりの顔を、終始伺うように見つめていた。
多田とみのりの二人はS駅に着くと、それから各駅停車と準特急を巧みに乗り継いで、目的地の新宿へと向かった。
着いてみると休日でもあって、新宿の街は人でごった返していた。二人は西口を出ると、あらかじめ問い合わせをしておいた、西新宿にある大型ペットショップにまっすぐに足を運んだ。
正直最初のうちは、いや今の今でも、あまり気が乗っているわけではない。しかしこれで、自分はいよいよまあまあな家のまあまあな父親、という烙印を抹消されるのだと思うと、気分もだんだん浮ついてくる。
そもそも世のまあまあな父親たちは、休日に娘とともにペットショップなどには行かないはずだ。
その事実だけでも、自分は少々先をいっている。
「ようしみのり、行くぞっ」
「……あっ。ちょっと待って」
多田はみのりの手を取ると、ともに早足で西新宿の電気街を抜けていった。
そのペットショップは、都庁を仰ぎ見る一角にあった。
自動ドアを開け、人でごった返す店内に入っていくと、近くにいた店員に声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「ええと先日……電話で問いあわせた者なんですが」
「ああ、多田さまですね、お待ちしておりました。犬種はパグということで」
「はい」
とさっそく、そばにいたみのりの鼻息が荒くなり始めた。
「ねえ、お父さん」
「なんだ」
「どの子にするかは、この私が選ぶからね。お父さんは、いっさい口出ししないで」
みのりはそう、じっと正面を見据えたままの真剣な顔で言った。
「……」
「ええっと小型犬のコーナーは、こちらでございまして。確か電話では、現在パグは二匹だと申し上げましたが」
「ああ、そうでしたね」
「それが新たに、また一匹増えまして。三匹の子の中からお選び頂けます」
「はあ」
「え、ねえ、それって、ちょっとラッキーってことじゃん?」
多田の顔を見上げ、みのりがそう声を張り上げた。周囲の客が、一斉にこちらを見る。
確かに言われたとおり、パグのケージの向こうには、全部で三匹の子犬がいた。二匹はメス、もう一匹はオスであるらしい。
「ではごゆっくり、お選びください」
言われたが早いか、みのりがさっそく目を輝かせながら、熱心にその品定めに入っていた。
正直なことを言うと、多田にとってはどの犬がどうなどというのは、これまでの人生で一度も犬を飼った経験のない以上、よくわからない。彼はかがみ込んでいるみのりの背後で腕を組むと、ただなんとなく、言われたその三匹を右から順に観察していった。
オスの個体はさっきから、毛布の上を元気よく動き回っては、しきりに他の犬にちょっかいを出したりしていた。他方、二匹のメスのうち、一匹はどこかのんびりと眠たげな様子で体を大きく伸ばし、へその見える腹をこちらに向けて愛らしい姿で寝転がっている。
そして残りの一匹は、その場にだらしなく、あたかも相撲取りかなにかのように座ったまま、いやにツンとすましたような、そんな表情で二人の方をじっと、逆に値踏みするような、そんな視線で眺めていた。
「……」
多田は、何か嫌な気持ちがした。
「ああ、ちなみにそこにお座りしている子が、新しく来た子ですね」
すぐに隣の店員が、そう付け加えた。
その子犬は、シュッ、と鼻水と共に鼻から息を出すと、舌でそれを舐めながら、二人になんの興味も無さそうに、今度はあからさまにそっぽを向いた。
見るとみのりの目が、なにか異様な輝きを放ちながら、その子犬を捕らえ続けていた。
「……おい、みのり。なんかこいつ、嫌な感じだぞ。こいつだけはやめておこうか」
慌てて言った多田の隣で、店員が苦笑いしている。みのりは聞いているのかいないのか、さっきからピタリと石のように固まったまま、微動だにしない。
まったく、これくらいの集中力で学校の勉強もしてくれればいいのにな、などと多田はつくづく思った。
「でしたらそろそろ、一匹ずつ抱かれてみてはいかがでしょうか?」
「ああ、そうですね、じゃあ」
そう言って歩み出た多田の前に、問答無用、といった感じでみのりが立ち塞がった。
「待って。私が抱くから」
店員から説明をうけながら、みのりはその三匹を一匹ずつ、念入りに抱かせてもらっていた。何かぶつぶつと、こちらに聞き取れないことをしきりに話しかけたりもしている。
その尋常でなく熱の入っているみのりを、多田は半ば呆れて眺めていた。
「ねえ、お父さん」
最後の一匹をケージに戻したみのりが、振り返って言った。
「何だ」
「……私、この子にするね」
みのりに指差されているその子犬は、例の一番すました顔の、しごく生意気そうなメス犬だった。
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