家族法

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「え、なに? そいつにするのか?」 「うん。私、もう決めたの」  彼はなぜか急に、両方の掌にじっとりと汗をかいてきたのがわかった。 「いや、だからそんなこまっしゃくれたようなのより、例えば元気のいい、こっちのオスとかの方がいいんじゃないか?」  みのりはこれ以上は梃子(てこ)でも動かない、そんな顔をしている。 「ううん。違う。私、この子がいい」  犬を飼う場合、女性の飼い主にはオス、男性の飼い主にはメスがいい、などというのを、多田はテレビかなにかで聞いたことがある。もしそうなら果たしてどうなのだろうと、彼はそばにいた店員に、自分の考えを補強してもらうつもりで意見を求めてみた。 「うーん、そうですねえ。ちなみに犬を飼われるのは、今回が初めてでしょうか?」 「ええ」 「でしたら、逆にあんまり元気な性格だと、扱いきれない場合があるかもしれないですねえ」 「……」 「ね? ほら、やっぱりこの子だよ。なんていうか、私この子と運命を感じるもん」 「……運命?」  みのりはもはや、他の犬にはそれ以上目もくれないでいた。このペットショップ自体にももう用はない、といった、そんな感じだ。  覚えず多田は、これから理子にラインして相談してみようかと、スマホを取り出しかかっていた。しかしとはいえ、べつにどうしてもその子犬はやめろ、などという、そんな説得力のある根拠も理由もない。聞かれた理子も、きっと困るだろう。  悩んだ多田はそのとき、ふと廣松のゲーム理論のことを思い出していた。  ……お互いに歩み寄りをした方が、最終的には結果は良い、ということだよ。 「ね?」  みのりが彼の顔を見上げ、あたかも最後通牒を叩きつけるようにそう聞いた。 「だったらまあ、そうしなさい」 「ほんとに? やったあ!!」  他をはばからず、みのりはその場で飛び跳ねて喜んでみせた。にこやかに多田に向かって笑いかける店員に、彼は黙って苦笑いを返した。  その日は支払いだけ済ませると、後日の引き取りの予約をして二人は店を出た。  さっきまでのどこか緊張した様子とは打って変わって、みのりは何かを一つやり遂げたとでも言うような、そんな晴れ晴れとした顔をしていた。  一方の多田は、どうにも複雑な気持ちでいた。  ……しかしまあ、自分もこれでいよいよ、な父親の状態から脱することが出来るのだ。めでたいじゃないか。そう強いて思うことにするか。  その最後の仕上げとばかりに、二人で手を繋いで新宿の街を歩きながら多田は、 「せっかくだし、帰る前にどこかで甘いものでも食べてくか?」  と聞いてみた。 「いいよ別に」  一瞬、否定の答えなのかそうでないのかわからずにいると、 「行ってもいいよ」  とみのりが言い直した。  デパートの地下みたいな綺麗な涼しいところで、メロンとかスイカとかを丸くくり抜いたものが乗ってるようなものが食べたい、などとみのりはひどく面倒なことを言った。その欲求を満たしてやるために、それから多田はルミネに行ったり京王に行ったり小田急に行ったりと、何度も地上と地下を上がったり降りたりする、そんな羽目になった。 「ねえ。楽しみだね」  寒くなってくるほど空調の効いているその店内で、大仰なプリン・ア・ラ・モードにスプーンを突き刺しながら、みのりが言った。 「何が?」 「何がって、あの子のことに決まってるじゃん。私、もう名前も決めてるんだ」  みのりは生クリームを口元につけたまま、添えられた真っ赤なチェリーを口に入れた。 「そうか」  多田は自分のブラックコーヒーを飲んだ。いやに苦く感じる。 「私、ちゃんと世話して大切にするからね」  彼の頭には、あの子犬の人を馬鹿にしたような顔が、いつまでも焼き付いて離れないでいた。  彼は今でも、この時のことを苦々しく思い出しては、後悔するのだ。      4  すっかり夏本番といった感のある、そんな陽気になっていた。  週末の休日。多田は月に必ず二度は行う、愛車のブルーのプリウスの洗車を済ませてしまうと、すっかりやることがなくなってしまった。  首を伸ばして、リビングにある時計を見る。まだ午前十時を少し回ったところだ。  彼は額に流れてきた汗を、手のひらで拭った。これから夕飯の時間まで、まだ八時間近くある。   本当のことを言えば、これから家の中に引っ込んで、クーラーの効いた部屋でゆっくり新聞でも読み、そのあとはポテトチップスでも食べながら、ソファに寝転がってボケッとテレビで女子ゴルフ中継などでも見ていたかった。  たまの休日なのだから。 「……」  彼は洗車道具を持ったまま、しばらくその場で立ち尽くしていた。それから、やおら二階のみのりの部屋を見上げた。  と一瞬、背筋に寒気が走った。 「ああいかん。いかんぞ」  多田は頭を振ると、使い終えた洗車道具を持って庭の中に戻った。  物置にバケツごと洗車道具をしまいこむと、庭のガラス戸を開け家の中に入った。すぐそばにある花の終わった紫陽花(あじさい)の葉の緑が、鮮やかに夏の強い光を跳ね返している。  見ると理子が、ラジオでJーWAVEを聴きながら、キッチンで料理をしていた。 「洗車は? もう終わったの?」  多田は理子のその問いには何も答えずに、そのまま急いで寝室に向かった。その彼の後ろ姿を、理子は軽くため息をつきながら、じっと目で追っていた。  彼は寝室に入ると、そこでいそいそと、着ていたビートルズのロゴのTシャツを脱いで、着替えを始めた。クローゼットの中から、先日近所のホームセンターの特売セールで理子に買ってこさせた、真新しいランニングウェアを取り出して袖を通す。  ピッタリとした、アンダーアーマーのそれに着替え終えると、彼はやおら横向きになって、クローゼットの鏡に自身の体を映し出してみた。  そのでっぷりとしたビール腹が、これ見よがしに、その存在を主張していた。 「……」  試しにその腹を、手のひらで叩いてみた。と、ポン、と間抜けな音を立てた。  ……今度は、なのか。  多田は寝室を出ると、タオルを首にかけてシャツの襟首にいれた。それからキッチンを覗き込んで、理子に声をかけた。 「おい」  汗をかきながらパン生地のようなものを伸ばしている理子が振り向いた。 「……何?」 「。な? これから。」  家中を見回すようにしながら、大声で彼はそう繰り返した。理子が口を開け、呆れた様子で眺めている。 「はいはい行ってらっしゃい。車に気をつけてね」 「……子供じゃないんだ」  さっきから、家の中にみのりの姿が見えなかった。どうしたんだろう。トイレにでも入っているのだろうか。  今の声かけが、みのりにちゃんと聞こえただろうかと、多田は少し不安になった。
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