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何かバツの悪い思いで、彼は玄関で真新しいアディダスのランニングシューズを履くと、もう一度真夏の日差しの差す自宅の外に出ていった。理子がエプロンで手を拭きながら顔を出すと、多田のそんな後ろ姿を、またため息をついて見つめていた。
洗い終えてピカピカになったプリウスの前で、呻き声のようなものを上げながら多田がぎこちなくストレッチをしていると、その脇をパグの子犬を連れたみのりが、元気よく駆け出てきた。
その途端、多田のストレッチは、ここぞとばかりに大げさで、真面目なものになった。
「なんだ、散歩か?」
リズムよく屈伸をしながら、唸り声に近いような声で多田が聞いた。
「うん」
父親のその姿を見た途端、みのりは目を輝かせた。
「お父さん、これからジョギングするの?」
多田は立ち上がると、軽く二、三度肩を回した。
「そうだよ。見てわからないのか」
みのりは感心するように何度か頷いた。
「ほんとよく、私の言うこと聞いてくれてるじゃん。偉いね」
心から満足げな顔で、みのりは多田を眺めながらそう言った。
追随するかのように、みのりの足元で舌を出し、ハアハアと息をしていたパグのりのみがワン! と吠え声を上げた。みのりが嬉しそうに、屈み込んでその頭を撫でる。
「よしよし」
りのみは白と水色のボーダー柄の、ピチピチとしたシャツを着せられていた。みのりが最近、自分の貯めた小遣いで買ったものだ。
「ねえ、お父さん」
ふいを突かれた多田は、俄然緊張した。
「なんだ」
「三日坊主じゃ……なんの意味もないんだからね? 絶対続けなきゃダメだよ」
「……」
「お父さんだって、頑張ればきっとカッコよくなれるんだからね。ね、そうだよね、りのみ?」
りのみがまた、ワン! と吠え声を上げる。
「ほらお父さんも、返事は?」
「……はい」
「よし。じゃありのみ、行こっ!」
言ってみのりは、りのみに繋いだリードを引いて、多田に向かって軽く手を振ると元気よく散歩に出かけて行った。
電柱のある角を曲がっていき、見えなくなるまで多田は、じっとその姿を見送っていた。その間りのみが、何度も繰り返し、例のこまっしゃくれた顔で舌を出しながら、多田の方を振り返っている。
多田は舌打ちした。
……自分のことを……監視してやがる。
やがてその姿が見えなくなると、彼は黙って肩を落とした。
そして頭を振ると、ストレッチもそこで適当に切り上げてしまった。
ストップウォッチのスイッチを入れると、彼は自宅の前からやる気なく、ゆるゆると走り出した。
とても蒸し暑かったが、風がわりに強く吹いている。
まずは家のすぐ近くを走る甲州街道に出、それから道沿いに調布方面へとゆっくり下っていくのが、今のところのなんとなくのジョギングルートだ。でもべつに、なにか理由があってそう決めたわけではない。ただなんとなくそうなった。
だいたいジョギングルートなんていうものをどう決めたらいいかなど、自分には見当もつかない。
目の前の歩行者信号が赤になると、彼は助かったとばかりにすぐに立ち止まった。その場で足踏みをするでもなく、首のタオルで顔をしきりに拭う。
道路の両側に並んだ、風にざわめくケヤキ並木の向こうに、真っ白い入道雲とともに、綺麗な夏の青空が広がっていた。多田はその景色を見上げながら、いまだまったく引っ込むことのない、自分のビール腹を繰り返し撫ぜた。
そんなことは、しかし考えてみれば当然なのだ。まだジョギングをはじめて一週間くらいのものなのだから。
そんなに早く、効果が現れるわけもない。
先は長い。多田はその場で深いためいきをついた。
パグのりのみが、晴れて多田家の一員になってから、かれこれ一ヶ月ほどが過ぎようとしていた。
その間の、みのりのそれを可愛がる様子は、多田と理子、夫婦二人が予想した通りに、「溺愛」という言葉がふさわしいものだ。
そのことは、子犬の名前を自分のそれをひっくり返したものにしたことにも、よく現れていた。
もっとマシな名前をつけろよ、と多田は、つい口を挟みたくもなった。が、どうせいくらいったって無駄だろうことは、ほとんど確定された事実のように、彼には思えたのだ。
それにせっかく今回のこの「ゲーム理論」作戦が上手くいきそうなところで、へたに水をさしたくもなかったのである。
しかし、作戦が上手くいく、などということは、実はとんでもない誤解だったことに、彼はやがて気づかされることになった。
パグが家に来てからしばらく経ったある日、多田のでっぷりとしたそのビール腹をみのりがズバリと指摘したのは、彼がリビングのソファにだらしなく寝転がって、煎餅を齧りながらネットフリックスでハマっている韓流ドラマを観ていた、そんなときだ。
犬を買い与えたことで、自分はもう、みのりに対してやるべきことは果たしたのだ。そんな風に思い込んでいた彼にとっては、まさに青天の霹靂、といった感じに近かった。
多田は途端に食べていた煎餅の味がわからなくなった。そしてまた、例の悪いくせが始まった。
それをはたで見、聞いていた理子は、もういちいち娘の言うそんな指摘を相手にしてはいけない、と強く言った。理子の言い分は、それはそれでもっともなことだし、多田にしてみても、まさにその通りだとしか思えない。
思えないのだが、しかしそれでも多田の内面には、もう一つのあの馴染みのある感情が湧いてくるのだった。
信号が青に変わったことに、多田はしばらく気がつかないでいた。ぼんやりと突っ立って考えごとをしていた彼を、後ろから追い越していく歩行者に押されるようにして、またゆっくりと走り出す。
対面から来る自転車を不器用に避けながら、狭い歩道をしばらく駆け抜けていった。
「ああ……辛い」
こんな真夏の炎天下のもと、無理してジョギングに出てきたことを、彼は少なからず後悔していた。雲間から刺す強い日差しが、走っている間容赦なく、多田の頭上から照りつけてくる。
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