家族法

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 夏場の熱中症には厳重注意しなければいけない昨今。こんなことは、ほとんど自殺行為に近いとさえ思われた。  着ているランニングシャツが汗でじっとりと湿って、その不快な重みを次第に増していく。体全体に広がる倦怠感が、出来るものなら肉体ごと脱ぎ捨ててやりたくなるほどに耐え難い。  確かに、理子の言うとおり、こんなことはバカげているのかもしれなかった。天井知らず、などとはよく言ったもので、自分たちが平均程度、あるいはそれ以下の生活をしていればこそ、その頭上には、まだまだ無限の空間が広がっている、というわけだ。  最初から、平均以上の家庭であるならいざ知らず。  でもまあ、なんとかする、とだけ、多田は理子に答えておいた。  ……でも、なんとかするって、どうやって?  ほとんど歩いているのか走っているのかわからないような、そんな速度で進んでゆくうち、やがて多田の視界に警察署が見えてきた。そこには南北にN川が流れていて、彼はいつもそこを左折して、川沿いの遊歩道を行く。  この日も彼は、そのとおりの道をたどった。  だんだんと正午に向かって近づいていく太陽の光はその執拗さを増して、これはひょっとして本式の熱中症の症状ではないのかというような、そんな気だるさが多田を襲い始めた。 「ああ……」  彼はついにそこで根を上げると、走るのを放棄してしまった。息を切らせつつ、即座に歩を緩めると、そのまま立ち止まって両膝に手をおき、嘔吐するような姿勢をとる。 「いかん、もうダメだ」  フラフラと近くの木陰に入って、しばらくうずくまり、じっとしていた。十分ほどそうやって回復するのを待つと、ようやく彼は唸り声を上げ、なんとか体を起こした。  まだわずかに吐き気のようなものを覚えるが、彼は柵のある川沿いの遊歩道を、虚ろな目で汗をぬぐいながら、ゆっくりと流していった。  そのうち、通常ならその場でUターンをして自宅へと戻る、そんなポイントにたどり着いていた。彼はそこで足を止めた。腕時計で時間を確かめる。  知らぬ間に、ずいぶんと時間が経っていた。  さっきまで吹いていた強い風は、いつのまにか止んでいた。大きなミンミン蝉の、終始そこここですだく声と、生ぬるい、何かねっとりとまつわりつくような、そんな不快な大気があたり一帯を覆っている。  このまますぐにでも家に帰ろうかと、虚ろな視線を向けたその先に、一台の車が止まっていた。その車は、深緑色のローバーの、新型RVだった。川にかかる橋の前の交差点で、信号が変わるのを待っている。  彼が何気なくその車を眺めていると、助手席の窓がひとりでに降りていった。とそこに一人の、ちょうどみのりくらいの色の白い、黒髪の少女が乗っているのに気がついた。  ふと思って、多田はさらにじっと目を凝らした。とその膝上に、一匹のパグ犬がちょこんと座って、こちらを見つめ返していた。 「……」  運転席には、大ぶりのサングラスをかけた、一人の若い女性が座ってハンドルを握っていた。襟を立てた純白のシャツを着、ウェーブのかかったロングヘアーを湛えたいかにもな雰囲気を発散しているのが、その姿から伝わってくる。  多田はしばらくじっと、その光景を眺めていた。  交差点の信号が、やがて青に変わった。そのパグ犬はこちらを振り向いたまま、舌を出してその大きな目で多田のことを見つめ返している。  助手席の窓がふたたび閉まっていき、続いて静かに車が動くと、多田はゆっくりとそれに合わせて走りだした。  すぐに多田は、さっきの車を見失ってしまった。  例の折り返しポイントから、多田はさらにその先に進んでいた。坂の多いそのあたりを、帽子で顔を扇ぎながら歩いているうち、彼は周りの風景が、ちょっとずつ変化していることに気がついていた。  多田はふと足を止めると、その場でポン、と両手を打った。 「……ああ、なるほど。そうか、そうだな」  言って彼は、なんとなく東京都の俯瞰した地図を頭に思い浮かべてみた。どうやら自分は、自宅のあるT市から、いつしかその隣りのS田谷区に入っていたらしい。  その区域といえば、芸能人などの高額所得者の邸宅も並ぶ、いわゆる高級住宅街、と呼ばれるあたりだ。  多田はあらためて、あちこちに整然と建っている、それらの巨大な家々をひとつひとつ、丁寧に(けみ)していった。様々な意匠を凝らした、そんな大邸宅の数々を眺めているうち、自分が全身全霊を込め、乾坤一擲(けんこんいってき)の気合いで三十年ローンをかけて買った家のことが、まざまざと思い出されてくる。 「……これじゃ、まるでうちはハリボテのセットだな」  だいたいうちの近所には、あんな立派な(もみ)の木や椰子(やし)の木などは生えちゃいない。近くの畑にニンジンやトマトは植っているが。  たびたびすれ違う、道を歩いている人々からも、そこはかとない人品の良さのようなものが偲ばれてくる。うちの近所みたく、正体不明の不気味な老婆がぼんやりと辻に立ち尽くしていることもない。  そばを走りすぎる車も、当然のように高級車ばかりである。  そうやって物珍しく、ウロウロと歩き回っているうちに多田は、自分の現在位置が把握出来なくなっていた。  ジョギングをするときは、彼はいつもスマホを持参してこない。誰かに近くの駅まで至る道を聞いて、そこからバスで帰ろうか、などと思っていたとき、彼はふいにその足を止めた。  電柱の向こう、ワンブロックほど先にいったあたりに、偶然さっきのローバーが停車していた。一件の巨大な要塞のようなコンクリート打ちっ放しの邸宅の、駐車スペースの木製のシャッターが開いていて、その前でアイドリングを続けている。 「……」  多田は歩きながらストレッチしているフリをしつつ、その車にゆっくりと近づいていった。  見ると、例のサングラスをかけた女性が、運転席に座って電話をしていた。助手席では、さっきの少女とパグ犬が、同じように座って何か会話のようなことをしている。  多田は一歩二歩、その場から下がると、今度はその光景の全体を、少し引いた目線で眺めてみた。 「……ああ。これだ」  彼は、今度はそれとなく、ちょうど車の背後に位置している、その家の玄関の方まで近づいていった。  ほんのわずか、動悸が激しくなる。 「これはきっと……じゃないんだろう」  表札がわりに、ローマ字でMIZUOCHI、と書かれた鉄細工が入り口の門のそばにあしらわれてあり、その下には同じように、番地記号だけの住所が記されてあった。多田はその住所を、頭の中に一瞬で焼き付けるようにした。  そしてすぐにその場を離れると、脳裏で繰り返し反芻(はんすう)した。  なんとか、記憶にとどめることができたように思った。  彼が軽く振り返ってみると、車が切り返しをして車庫に入れている途中だった。そのとき運転席の女性と目があった気がしたが、そのまま知らぬふりをして、そそくさと歩き続けると、次第に行く手に見えてきた下り坂を下って行った。  ここに来るまでにかいて、トレーニングウェアを濡らしていた汗は、その頃にはもうすっかり乾いていた。  歩きながら彼は、今後毎回、ジョギングのコースの折り返し地点に、この水落家を組み込むことに決めた。  そしてそれを、彼は二年間、着実に実行したのである。      5 「……ええっ?」  フローリングの床の上にべったりと腰を下ろした、セーラー服姿のみのりが、困った顔で食卓に座っている多田と理子を見上げると、大声で叫んだ。 「ねえ、なにそれ。ちょっと信じらんない」
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