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「……」
多田はさっきから、自分の顔を隠すようにして新聞を広げていた。その頭髪は、さらに白さを増している。
「だって……しょうがないでしょ」
仕方なしに理子が、多田の代わりに小さな声で答えた。
「あのさあ。りのみは病気になったんだよ? なのになんで、すぐに手術させてあげないの?」
幼かったころとは全く違う、思春期特有の金属質な、不必要にキンキンとしたその声が、多田の耳に突き刺さってくるようだった。
彼は軽く舌打ちをして、黙ったまま新聞のページを一枚めくった。と、にわかにまた、みのりの表情が鋭いものになる。
「だって見てよ。りのみもう死にそうじゃん!」
理子がすぐに、
「大げさねえ」
と、たしなめるように言った。
「フィラリアっていうのは感染しても慢性的な病気で、今すぐどうこうってもんでもないんだって、獣医さんも言ってたでしょう」
黙り込んでいる多田に代わり、少しずつお腹の大きくなり始めた理子がまた答えた。みのりはそんな二人を、さっきから信じ難いような顔で見つめている。
床に敷いたタオルケットの上で、舌を出して寝ていたりのみが、嫌な咳を何度か繰り返した。
ガタガタと音を立て、コンロにかけていた鍋の蓋が飛沫をあげて動き出した。理子は大儀そうに椅子を立って中を覗き込むと、お玉で中身をかき回した。
「……ねえ、ちょっと何? 手術すればすぐ治るのに、それをせずに放っておく家ってさあ」
多田の新聞をめくる手が、ピタリと止まった。
「あのね。今はいろいろと大変なの。あなたもよく、わかってるはずでしょう。お父さんも決して意地悪で言ってるんじゃないんだから」
みのりはすぐにも、ブスッとむくれた顔をした。多田は読んでいた新聞をたたむと食卓の上に放り置いて、眉間のあたりを揉む。
「でも、早期発見出来ただけでも運が良かったじゃない」
「……そういう問題じゃない!」
両手を強く握りしめて立ち上がり、そう叫んだみのりをりのみが足元からうつろな顔で軽く見上げた。
りのみのその病気がわかったのは、ちょうど今から一週間ほど前、思い出したようにりのみを理子とみのりが健康診断に連れていったときのことだ。
飼い始めの頃のみのりの溺愛も、この頃はすっかり落ち着いて、ついフィラリア症の予防薬を投与し忘れたのは、当のみのり本人だったのだ。
それだから、余計に悔しさがつのるらしい。
「おい理子、早くめし」
多田はぽりぽりと、頭のつむじあたりを指先で掻きながら言った。
「はいはい。もうすぐです」
理子が炊飯ジャーに手を伸ばして蓋を開けると、中ではふっくらとしたエビピラフが炊けていた。つわりの時期の理子は最近、酸いもののかわりになぜかエビやカニなどの甲殻類を、やたらに食べたがる。
理子の妊娠がわかったのは、今年の春先の頃だった。みのりを産んでから、二人目がなかなか出来なかったが、ある日人づてに腕利きの産婦人科医の紹介をされ、一年ほど不妊治療を試みた、その結果が良かった。
いざ出来てみれば、意外にも内心多田がひそかに待望していた男の子だったのだ。
「ねえ、ちょっとお父さん。私の話聞いてる?」
拳を握りしめたままのみのりは、多田をまっすぐに見つめていた。その仕草と険しい表情は、少し面食らうほどだ。
「ああ。聞いてるよ」
彼は自分も立ち上がると、両手を腰にやり、足下に寝ているりのみを見下ろした。
多田がりのみの病気の治療を当分さきのばすことに決めた、その第一の理由としては、先日担当の銀行員にそそのかされ、住宅ローンの借り換えをしたばかりで、毎月の返済額が上がってしまっている、ということがまずあった。
さらに理子は、それまで続けていた医療事務のパートの仕事を、休まざるを得なくなっていた。多田は最近、課長補佐という役職に昇進はしたものの、それら全てを補って余りあるほど、給与が上がったわけでもない。
加えて迂闊なことに、彼らはペット保険に入っていなかった。ざっくりと、その治療にかかる金額を問い合わせてみたところ、動物の治療費は高い、と噂には聞いていたものの、それはちょっと驚いてしまうほどの額だったのだ。
「だからお母さんの言う通り、もうしばらく我慢してくれよ」
つい投げやりな調子で、みのりと向かい合うと多田は苦々しげに言った。
「もう! お父さんの馬鹿! もう知らない!」
みのりはそう叫ぶと、そのまま部屋を走り出ていった。激しい音をたてて、階段を駆け上がって行く。
「あっ、ちょっとみのり、もうご飯ーー」
やがて部屋のドアがバタン、と激しく閉まる音が聞こえてきた。
「もう放っとけよ」
多田は大きく息を吐いて、足下を見た。そして靴下を履いた足先で、寝ているりのみの額を幾度もこづいた。
理子はそんな多田を見ると、二階のみのりの部屋のあるあたりの天井を見上げ、肩を落として鍋の乗っているコンロの火を消した。
多田はすっかり着古したトレーニングウェアに着替えると、理子のいるキッチンを覗き込んだ。
「……おい、行ってくるぞ」
そう声をかけると、料理のレシピ本を開いて見ていた理子が、軽く振り返った。
「ああ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
言ったあとで、理子がじっと多田の顔を見ていた。その場で彼は、家の中のどこかにいるはずの、みのりの気配を感じ取ろうとしばらく息を凝らしていた。
「何、どうしたの」
「……ん? ああいや何でもない」
さっきりのみは、クレートの中でこちらに背を向けてうずくまって寝ているのを確認している。
「ねえ」
多田が玄関に向かおうとしたとき、理子が声をかけた。
「今日こんなに暑いのに、大丈夫?」
冷房の効いた家の中からでも、蝉のせわしい鳴き声がしきりに聞こえている。リビングの向こうの、いっぱいに夏の光の溢れる窓の外に多田は目を細めると、
「まあ、大丈夫だろ」
「あのさ。もうそろそろそんなに、頑張らなくてもいいんじゃない」
多田は黙って口元を掻きながら、理子からそっと目を逸らした。
「きっともう、わかってるはずだと思うけどな、みのりも」
確かに当時、あれだけ出ていたビール腹も今ではかなり改善されてはいた。晩酌もほどほどにするようにしている。
しかし、だからといって、別に褒められたようなことでもないのだとも、多田は率直に思った。
「じゃあ、行ってくるわ」
彼は理子に向かって、軽く手を上げた。
大丈夫だろうとは言い条、いざランニングシューズを履き、扉を開けて外に出てみると、そのうだるような暑さに多田は若干たじろいでしまった。
炎天下と呼ぶにふさわしい、猛烈な天気だ。彼は強い日差しの下で念入りにストレッチをしながら、二階のみのりの部屋のあたりを見上げた。
白地に赤のハートマークのあしらわれたカーテンが、ぴたりと隙間なく閉じられている。
先日来、みのりは彼と全く口をきかなくなっていた。家の中ですれ違っても、視線すら合わせようとしない。
すぐにそそくさと、自分の部屋に素早く引っ込んでゆくのみだ。
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