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「まあ、仕方ない。そういう時期なんだ」
彼はそう独り言を呟いた。
ストレッチを終え、その場で二、三度ジャンプすると、彼は家の前からゆっくりと走り出した。その後ろ姿を、二階の部屋からカーテンをわずかに開け、みのりがじっと見つめていることに、彼はまったく気がついていなかった。
さすがにこれまでジョギングを続けてきただけに、足の運びもスムーズに、彼は例によって甲州街道に出ると、そのまま道沿いに下っていった。
その後警察署のある場所を左折しN川沿いへ、というジョギングコースは、走り始めの当初からまったく変わっていない。
ケヤキ並木の向こうの空を見上げると、もくもくとした入道雲の向こうに顔を出す陽の光は強烈だった。蒸し暑いどころの騒ぎではない。すぐにも汗が、全身から噴き出てくる。
しかしこんなにも暑いのだから、彼は自分が、何かこれからおかしなことをしでかしても全然不思議じゃないな、などと、硬いアスファルトを踏み締めながら思った。
普段通り、自宅のあるT市から、S田谷区の地域に入る。いくら走りなれたとはいえ、急に坂道が増え出すと、途端に息も上がってくる。
このあたりまで来ると、何らかその町の雰囲気が、自分の住む町から如実に変化するのだった。そんな印象を、毎回必ず覚えるのが不思議だ。
この感覚を、彼は最近、このようにひとまず言語化し終えていた。
つまりーー自分はこうして、まあまあである領域から、まあまあでない領域へと、空間を移行していっているのだな、と。
目印の教会を右折してしばらく行くと、やがて例の要塞のような、コンクリート打ちっぱなしの水落氏の邸宅が見えてきた。
あの日運転席でローバーを運転していた女性は、当然のごとく、水落というこの家の当主の妻だった。その若干年配らしい夫の方も、多田はこれまで何度も目にしたことがある。
彼がいったいどんな職業についているのかは、まだわかっていない。そのかわりというか、乗っている車はコロコロ変わっていて、その遍歴は多田の頭にしっかりと焼きついている。以前のローバーからたいして日を置かずにまずはベンツのSUVになり、さらに先日、白のポルシェのカイエンになったばかりだ。
どう考えても、自分のような下級公僕でないことは、火を見るより明らかだ。
少し小太りな体型である水落氏は、体を動かす習慣などは、どうやらないらしい。もしかしたら、ゴルフぐらいはしているかもしれないが。
その点は、少し勝っているかな、と思う。
子供は三人いた。その長男は、今年高校に入学したばかり。
その下に、あの黒髪の少女の妹と、さらに小学生の男の子がいる。
ジョギングのたび、そんな水落家を多田は念入りに観察し、自らの家と細かく比較検討してきた。
そのごく初期のころ、彼には一つ気がついたことがあった。
水落氏がそうなのか、はたまた妻がそうなのか。それとも互いにそう言う嗜好なのかはわからないが、彼らは一年の行事に、ひどく敏感なようなのだ。
例えば、二月の豆まき。そして三月には、おそらくひな祭り。そして五月になれば鯉のぼり。
ハロウィンを経由し、さらにクリスマスになれば鮮やかなイルミネーションが家の周りに点灯された。
庭先からバーベキューを行なっているような、賑やかな雰囲気と香りが漂ってくることもたびたびだ。
多田は本来、その手の年中行事には全く熱心な方ではなかった。生まれ育った実家がそういう家だった、というのも、その理由としてあるかもしれない。
理子がクリスマスにケーキを作る、彼が、そっとプレゼントをみのりの枕元に置く。そのくらいのことしかしてこなかったのだ。
だから、唐突に彼が、その逐一を自分の家で模倣し始めたとき、理子は驚いたものだった。
一方みのりは、彼のその変化を大いに歓迎した。そして自分からも率先して飾り付けなどを手伝ったりするようにもなったのである。
しかし、そのころからだ。理子があからさまに、多田に向かってあれこれ心配を始めたのは。
ようやく水落家の付近までやってくると、多田はいつもするように、その場で足踏みをしながらぼんやりその周辺を眺めた。
いつもと変わりない、水落宅だった。当たり前だ。あんなにも頑丈そうな家が、始終変化していたらたまらない。
もし仮に東京を、壊滅的な規模の巨大地震が襲っても、おそらくこの家ならビクともしないだろう。
自分たちだけ助かれば、それでいいのかもしれない。
炎天下のもとステップを続けていると、玄関の木製の扉が静かに開き始めた。見ると例のパグ犬が、家の中から一匹でひょこひょこと歩き出してくるのが目に入った。
犬には首輪だけついていて、リードはついていなかった。半開きになっている門を体で押すようにして、今にも外に出ようとしている。
「……」
多田は足を止めた。汗の滲む目を手で拭いて見ると、家の中にわずかに人の気配があるのが伝わってきた。
それにしても以前から、その気があるようには思っていたが、この飼われているパグ犬は、これまでの年月で、すっかり目も当てられないほどに、ぶくぶくに太っていた。
歩いている姿もなんと言うか、何かの白い塊が、右、左、とテンポよく傾いているようにしか見えない。パグ犬特有の、顔のシワというシワが深く内部に向かって刻み込まれ、表情自体が陥没してしまっている。
普段から犬用の服を着せられているが、この日は黄色のピチピチとしたシャツを身に纏っていた。よく見ると、そのシャツには大きなキスマークの絵柄がプリントされてあり、そこには赤字でSummer! と書かれてある。
そのパグ犬はさっきから、家の前を不用意にうろうろと歩き回っていた。その中では、まだ例の気配が続いている。
犬の名前は、ペッシュと言った。ペッシュ、ペッシュ、と妻や家族が犬に向かって言っているのを、多田は以前偶然に端から聞いたことがあったのだ。
気取った名前だな、などと鼻につきながらも、彼にはその意味がよくわからないでいた。
あるとき職場で、廣松にそのことを尋ねてみた。と、多分フランス語じゃないかな、と言うことだった。
俺は第二外国語、フランス語だったからな。
調べてみるとドンピシャで、フランス語で「桃」と言う意味らしかった。確かにそのまん丸のボールのような体躯は、一個の桃のように見えなくもない。
多田がそのうちステップするのをやめ、その場に仁王立ちになったままでいると、ふとそのペッシュと目があった。と、何か不穏なものを感じたのか、すぐにペッシュの方から目をそらした。
「……」
多田はゆっくりと、その場でボクサーのようにまた軽快な足踏みを開始した。ペッシュは舌で鼻先を舐めながら、彼から目をそらしたままでいる。
と、ペッシュはひょこひょこと左右に体を動かしながら、さらに家の外に出ようとした。
「……ペッシュ!」
そのとき、家の中から声が聞こえた。多田は心臓が止まるような思いがした。やがて扉の向こうから、水落氏の妻が姿を見せた。
妻と目があった。多田に気が付く。
「あ、どうもすみませんーー」
妻はすぐにもペッシュを抱き上げると、多田に頭を下げた。
「こうら。ダメでしょペッシュ。勝手におうちを出たら……」
妻は苦笑いした後で多田を見た。彼もつられて笑い顔を返す。
しばらく、二人は無言で見つめ合った。
「……今日も、ジョギングですか?」
妻が笑顔で、愛想よくそう話しかけた。
「ええ」
「こんなに暑いのに、いつも精が出ますね」
これまでに多田は、うっすらとだがこの妻と面識を得ていた。しかし面と向かって言葉を交わしたのは、これが初めてだ。
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