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有菅傳は、まだ十代のうちから、船に乗り始めた。
時代が時代である。口減らしの為、早々に働く事を家族から望まれた傳は、遠洋漁業の船に乗り、死人さえ出る過酷な業務を体験してきた。
そんな傳の楽しみでもあり、特技でもあったものは、料理だった。彼のまかない飯は、同僚に大いに喜ばれた。思えばこの時戴いた同僚らの賛辞こそが、彼に後の道を選ばせた源泉となったのだろう。
だが、傳が二年程度勤めた所で、この漁船の会社は倒産してしまい、傳は職を失ってしまう。その傳本人はそれを受け、これで死なずに済んだと心から喜んだという。
ところが、その頃になると、太平洋戦争がいよいよ激化してきて、傳は兵役に就かなくてはならなくなる。結局また命の危険に身を晒す事になってしまったのだ。
やがて終戦を迎え、幸いにも命のあった傳は、職を探すのに料理で己を売り込んでいった。それは流派だの高名な誰かの弟子ですよというものではなく、今で例えると料理研究家を標榜するユーチューバーに、している事は近かっただろう。だから今とは違う、ましてや敗戦直後の日本ではなかなか認めてもらえない。そんな傳を見出したのは、この時日本の再生に着手していた、アメリカだった。
『ワンダーランド・クルーズライン』
カリブ海を営業拠点とし、やがて世界最大のクルーズ会社となるここの一員となった所から、有菅傳は料理人としての第一歩を踏み出す。
◇ ◆ ◇
仕事ではない、たかだか一人前のお好み焼きを作るだけの卵だった。だからか、流れ作業ではなく比較的丁寧に、傳は卵を割った。しかしこれには別の理由があった。エッグセパレーターなどというしゃれた物はこの店にはないので、殻を使い卵を黄身と白身に分けようとしたのだった。
そうかと思えば、なぜかハンドミキサーはあったりする。それを用意した傳は、分けられた白身を泡立て始める。これではメレンゲの作成だ。塔子は傳が何をしようとしているのか見当がつかない。
──お母さんに似た表情を見せる。
ハンドミキサーが白身に角を生やそうと張り切って働いている間、傳は塔子の、不思議そうに自分を見る表情にそこはかとない懐かしさを覚える。
傳の息子の妻にして、塔子の母にあたるその女性は、年に数日しかないこの舅の帰国を、実の息子がする以上に歓迎してきた。そんな彼女の表情に、それまでの疲れも忘れた傳は、この可愛らしい嫁に自身の料理を披露してやる。幼い塔子を傍らに、傳の姿を目を輝かせて見ていたものだった。
料理レシピ本に載っているやり方や食材と一線を画す傳の調理法を目の当たりにする度、彼女がしてきた不思議そうに見つめる表情を、傳は今、彼女の忘れ形見に重ねる。
そんな傳はこれまでの七十余年の人生で、古今東西、老若男女、さまざまな人間を見てきた。だからこの時点で、何かまではわからないものの、今日の塔子はいつもと違う、何かがあったのだなと感づく。
──儂がこの子に伝えられるものは、これしかあるまいよ。
制服の皺がいつもより目立つ塔子に、傳は自身の最も自分自身といえるもので、精一杯のメッセージをこれから伝えようとしている。
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