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2 惑乱
今思えば、蓮生との出会いから桜が深く関わっていた。
蓮生と出会ったのも、桜の季節だった。その年、私は大学の卒業を控えているのに、就職先がまだ決まっておらず、現実の何もかもが嫌になっていた。
就職難で自殺を図る人もいるというのはよく分かる。私もその頃は、先の見えない未来への不安と、周りはどんどんしっかりした未来を歩んでいくことへの羨望と妬ましさでおかしくなりそうだった。
卒業までに就職が決まらなかったら、死ぬのもありかもなあ。
どろりと仄暗い感情が湧いた時、一陣の風が吹いた。気がつけば、私は一本の桜の大木の下に来ていて、桜吹雪が私を包む。
死を望む私を惑乱するようにあちら側へおいで、おいでと誘う桜の甘い囁きに、束の間、ぼうっとした時だった。
桜吹雪の中からふっと一人の男が現れる。その男の姿が特別美しかったわけではないが、まるで桜から産まれたかのように見えて、私は束の間、男の姿に見入った。
男は永い眠りから覚めるようにゆっくりと目を開き、私と目を合わせるや否や微笑む。私は一目惚れなどしたことがないが、男の笑みにつられて笑い返した時、胸の内が熱くなり、その始まりを悟った。
それが蓮生との出会いだった。私は彼と会う時は、とにかく彼以外目に入らないほど夢中で、底が見えないくらい深く愛し、囚われた。
けれど、蓮生がいなくなって一人になった今、少し冷えた頭で考えると、不思議に思うこともある。蓮生が現れるのは、初めに出会った時と同じで、決まって桜が咲く季節で、散ってしまえば忽然といなくなる。
最後にいなくなった時だけ、私の目の前で倒れたのだが、少し目を離した隙にその姿は消えた。警察や救急隊員まで探してくれたのだが、ついにその姿は見つからなかった。神隠しにでも遭ったかのように。
その後、私はさらに彼を探そうとしたのだが、探せないことに思い当って愕然とした。私は彼の存在に魅了されるばかりで、名前以外の情報を一切知らない。知ろうという気持ちは不自然なことに一度も湧いてこなかったのだ。けれど同時に、仮に知ろうとして尋ねたところで、彼のことは何一つ分からなかったのではないか。
強くそんな気がした途端、木々のざわめきに紛れて、声がした。
「美雨」
その声は蓮生のものに違いないが、まるで風や木に一体化したかのように、酷く聞き取りづらく、人の声より音と表した方が正しい。
「蓮生?」
呼び返せば、いつの間にか開いていた窓から風が舞い込み、それに乗ってひらりひらりと薄紅の花弁が入り込んでくる。
「桜……」
明らかに意思を持って私の元へ近づいてくる花弁。私は束の間我を忘れて、月明かりに照らされて妖艶に発光するかくも美しい花びらに触れる。
その途端、強い風が吹き荒れ、酔うほどに芳醇な香りにして包まれる。私は桜が嫌いだが、この人を惑わし、ここではないどこかへ引き込んでしまう力には抗えない。
「美雨」
桜吹雪に包まれて、あなたは今でも私に微笑む。私があちら側への誘惑に完全に飲まれるまで、何度も、何度も。
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