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「ん…… 誠一さん?」
「ああ、起こしてしまったね。すまない」
「いいえ。出迎えもせず、申し訳ありません」
「いいんだ。元気でいてくれることが、一番だから」
ゆっくりと上体を起こした絹代に水を飲ませる。出会った頃は空気を抱いているようだった彼女も、今では女性らしい柔らかさが感じられた。
ふうと一息つくと、彼女は庭の桜を眺めて言った。
「実巳さんはお元気でしたか」
「ああ、相変わらずだよ。来年は絹代も一緒に花見をしようと言っていた」
「まあ、それは頑張らないと……」
絹代が伏し目がちに言う。それは己の病状を憂いてではなく、他の桜に目移りすることが後ろめたいからだ。
何年経っても、桜咲くこの時期には決まってかつての恋心をあの瞳に滲ませる。普段の優しい眼差しとは違う。哀しみと愛しさの入り混じった、淡い熱を帯びた瞳……
それが俺に向けられることはない。
「見事だよ、あの桜並木は。きっとお前も気に入る」
「本当に好きなのですね。少しだけ意外です」
「そうか? 桜は好きだ。咲き誇る姿は美しく、散りゆく姿は儚げで」
「ええ、そうですね。私も桜は大好きです」
夜風に誘われて、あれの花弁がはらはらと散る。寝床まで舞った一枚を、絹代は慈しむように摘んだ。紅く染まった花弁は、彼女の白く細い指によく映える。
お前の言う桜が、この桜だけを指していることを、俺は知っている。
俺の言う桜に、この桜だけが含まれていないことを、お前は知らない。
そうか、絹代––––
お前は花見と聞いて、あの男を想うのだな。
「どうやら、実巳の悪癖がうつってしまったようだ」
「なんのことでしょう?」
「いいや、なんでもない」
あれほど鮮やかに思い描いた来年の春が
どんどんと褪せていく
あの天の川に心を打たれるお前の輪郭が
はらはらと散っていく
それでも––––
俺はおもむろに左手を差し出した。月夜をたゆたう一枚が、無骨な手のひらに舞い落ちる。どこへも飛んでいかないように、そっとそれを握りしめた。
「愛しているよ、絹代」
「はい。お慕いしております、誠一さん」
いつの日かお前と
薄桃色の春の下
笑って生きられますように
願いながら
唇を重ねた……
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