紅色の夜

2/2
前へ
/10ページ
次へ
「ん…… 誠一さん?」 「ああ、起こしてしまったね。すまない」 「いいえ。出迎えもせず、申し訳ありません」 「いいんだ。元気でいてくれることが、一番だから」  ゆっくりと上体を起こした絹代に水を飲ませる。出会った頃は空気を抱いているようだった彼女も、今では女性らしい柔らかさが感じられた。  ふうと一息つくと、彼女は庭の桜を眺めて言った。 「実巳さんはお元気でしたか」 「ああ、相変わらずだよ。来年は絹代も一緒に花見をしようと言っていた」 「まあ、それは頑張らないと……」  絹代が伏し目がちに言う。それは己の病状を憂いてではなく、他の桜に目移りすることが後ろめたいからだ。  何年経っても、桜咲くこの時期には決まってかつての恋心をあの瞳に滲ませる。普段の優しい眼差しとは違う。哀しみと愛しさの入り混じった、淡い熱を帯びた瞳……  それが俺に向けられることはない。 「見事だよ、あの桜並木は。きっとお前も気に入る」 「本当に好きなのですね。少しだけ意外です」 「そうか? 桜は好きだ。咲き誇る姿は美しく、散りゆく姿は儚げで」 「ええ、そうですね。私も桜は大好きです」  夜風に誘われて、あれの花弁がはらはらと散る。寝床まで舞った一枚を、絹代は慈しむように(つま)んだ。紅く染まった花弁は、彼女の白く細い指によく映える。  お前の言う桜が、この桜だけを指していることを、俺は知っている。  俺の言う桜に、この桜だけが含まれていないことを、お前は知らない。  そうか、絹代––––  お前は花見と聞いて、あの男を想うのだな。 「どうやら、実巳の悪癖がうつってしまったようだ」 「なんのことでしょう?」 「いいや、なんでもない」  あれほど鮮やかに思い描いた来年の春が  どんどんと褪せていく  あの天の川に心を打たれるお前の輪郭が  はらはらと散っていく  それでも––––  俺はおもむろに左手を差し出した。月夜をたゆたう一枚が、無骨な手のひらに舞い落ちる。どこへも飛んでいかないように、そっとそれを握りしめた。 「愛しているよ、絹代」 「はい。お慕いしております、誠一さん」  いつの日かお前と  薄桃色の春の下  笑って生きられますように  願いながら    唇を重ねた……
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加