薄桃色の昼

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 そろそろ喧騒にも飽きてきた頃合いに、俺たちは人混みを外れた。急な坂道をのぼった先にある喫茶は、俺たち行きつけの休息場所だ。立地のためか客足は少なく、店はいつも落ちついていた。  ここの屋外席から望む街並みは、なかなかに美しい。あの桜並木も一望できるので、息を切らして急勾配をのぼるだけの価値は十二分にあった。 「下から仰ぐのもいいが、上からの眺めも絶景だねぇ」 「そうだな」 「庭の桜も、もう満開かい?」 「いや、あれは品種が違うようで、まだ七分咲きだ」 「そうだったかね。言われてみれば、あれはもっと紅かった気もする」  実巳は去年うちで見た満開の桜を思い出しているようだった。川沿いの薄桃色の花弁とは違って、我が家のそれは梅かと思うほどに紅い。  俺は川沿いの桜の方が好きだ。あれらの方が、桜然としている。 「誠一」 「なんだ」 「来年は、絹代さんも一緒に見よう」  俺は実巳を見たが、奴は変わらず桜を眺めていた。  ここで絹代の名前を出すということは、きっと何かを感じ取っていたのだろう。俺を花見に引っ張り出したのも、奴なりの気遣いなのかもしれない。俺は平静を装って応えた。 「お前の子守は懲り懲りだ。来年は一人で見るんだな」 「あっはっは! 厳しいねえ」  その時、一層強い風が吹いた。砂埃が目に入り、俺は顔を伏せる。  眼下の宴は、どんちゃん騒ぎになりつつあった。スカートを押さえる乙女たちの、キャーキャーと甲高い声。酒が倒れた、箸が飛んだと喚く男どもの、呂律の回らぬ訴えが飛び交う。  あんな場所に絹代を連れて行けるものか。きっと人に酔って、すぐに具合を悪くしてしまう。そんな彼女を想像するだけで、俺の心は押しつぶされそうになった。 「見てごらん、誠一。天の川だ」  目をこすって顔を上げると、やはり実巳は桜を眺めていた。その幸せそうな視線の先を追いかけると…… なるほど確かに、それは天の川であった。水面は虹色にきらめいて、そこへ降り注ぐ桜吹雪はまるで星の瞬きのようである。  春に咲く、天の川––––  そうだな。あの喧騒はよろしくないが、ここから静かに眺めるくらいは許されるだろう。一年もあれば、絹代も今よりずっと動けるようになるはずだ。俺は目を閉じて、この天の川に心打たれる絹代を思い描いた。  ああ、どんなに幸せだろうか……  あの忌まわしき桜から、彼女を解き放つことができたなら……
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