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翌週、鞄一杯の現金をもって一平の家を訪れた。彼は目玉が飛び出るほど驚いた後、敵意を露わに睨んでくる。俺のこともとっくの昔に知っていたのだろう。
「受け取ってくれ」
「こんな金…… お前みたいなやつと一緒になっても、絹代は––––」
「君と一緒になっても、野垂れ死ぬだけだ」
「このやろうっ……!」
一平は右手で俺の胸ぐらを掴んだが、殴るための左腕は肩からすっかりなかった。愛する女を養うことも恋敵を殴ることも出来ず、一平は苦悶に顔を歪ませる。
そんな彼の目を、まっすぐに見据えながら言った。
「俺は彼女に末永く生きてほしい。俺ならそれを叶えられる。だから、もう彼女のことは諦めてくれ」
訪れる沈黙、一筋縄でいかないことは予想していた。しかし、どれだけ罵られようが俺の覚悟は揺らがない。一平は長い沈黙のあとに小さく息を吐いてから、ようやっと言葉を紡いだ。
「末永く、か…… 必ず、果たせよ」
そう静かに言うと、鞄を俺につき返した。痩せ細った腕一本で、現金の詰まった鞄をふるふると持ち上げている。
「お前の情けなんていらねえ。結納金にまわせ」
「……わかった」
存外あっさりと諦めたので、内心驚いた。「なぜ?」という言葉が喉まで出かかったが、それを必死に飲み込む。俺が導き出した答えを、一平の口から聞きたくなかった。
きっと……
絹代を愛したその日から、今日までずっと悩み苦しんできたのだ。己の愛と彼女の幸せを、来る日も天秤にかけていたのだ。この諦めの良さは、それだけ一平が悩み抜いたことの表れだった。
どれだけ愛していても、愛しているからこそ…… 彼女にとっての真の幸せを、一平は選び取ったのだ。
気に食わなかった。この男が、それほど深く絹代を愛しているということが。「絹代は俺のものだ、もっと金をよこせ」と惨めに食らい付いてほしかった。
「どうか…… 絹代を幸せに……」
一平は深く頭を下げながら、絞り出すように言った。
俺の恋路を阻むものは綺麗さっぱりなくなったのに、澄んだ水面に墨を一滴落とされたような不快感だけが残った。
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