4人が本棚に入れています
本棚に追加
紅色の夜
◇ ◇ ◇
「おかえりなさいませ、旦那様」
「ただいま。絹代の様子はどうだ」
「顔色もよく、夕食も少な目でしたが平らげましたよ」
「そうか、ありがとう。今日はもう帰りなさい」
家政婦は深々とお辞儀をして帰っていった。俺は上着も脱がずに真っ直ぐに絹代の元へ向かう。
静かに襖を開けると、絹代は心地良さそうに眠っていた。行燈の明かりがぼんやりと彼女の白肌を照らす。本当にここ最近は顔色がいい。頬も前よりふっくらとしてきた。枕元に置いてある盆を見るに、ちゃんと夜の分の薬は飲んだらしい。
涼しい風が頬を撫でる、障子が開け放たれていた。あれだけ夜は閉めなさいと言っているのに、きっとまた家政婦に我儘を言ったのだろう。俺は忌々しげに障子の向こう側を睨んだ。
月夜に照らされた大きな桜の木は、恐ろしいほどに美しい。七分咲きの紅い花が、春の夜風に揺れている。
俺の願いを嘲笑うかのように、あの桜は強く逞しく育った。蕾の一つも残さず燃やそう、根の一本も残さず引き抜こう…… 毎年、雪解けとともに俺の憎しみは膨れ上がる。とうとう納屋から鋏を取りだした日もあった。けれど、絹代の笑顔が邪魔をする。
見て、今年も咲きましたよ––––
いつだって誰より早く気づくのだ。そうしてあんまり幸せそうに笑うから、俺は握った鋏を背中に隠す。
そうだ、この桜は絹代の希望だ。これが枯れれば、絹代の生きる意志も枯れ果てる。俺はそれを痛いほどに分かっていた。
嵐がくれば、桜は無事かと気にかける。そんな己があまりに滑稽だった。なぜこんなにも忌まわしいもののために、金も手間暇もかけねばならぬのだ。
きっとこれは呪いだ。愛する二人を引き裂いた呪い。
けれど、最新の医術と行き届いた世話のお陰で絹代は年々元気になっていく。彼女をここまで健やかにしたのは、他でもない俺だというのに。
この仕打ちはあんまりではないか。
最初のコメントを投稿しよう!