記憶のない青年

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記憶のない青年

────し……?……もし?…大丈夫で…?」 体温を溶かす雨音に混ざるように凛とした声が聞こえて来る。その声は高すぎず低すぎもしない自然と耳に入るような声だった。 「……ぅ…」 ぼやけた視界で見えるのは紫色の番傘と細身の人の影だった。 「しっかりしてください、起きれますか?」 肩を持たれるものの力はほぼ入らず凭れ掛かる形でゆっくりと移動した。 暫く歩けば小さな小川の傍にある長屋へと運ばれた、並んだ戸の内の一つを開けると九尺二間程の部屋(4.5畳と気持ち程度の土間)が見えた。 その端に敷きっぱなしの敷布団に寝かせられ寒くないようにと火鉢を傍に置いたのを見た後沼に飲まれるように意識が途絶えるのだった。 ──目が覚めたのは日の入りの一刻前程だろう。 運ばれた時刻も曖昧な為どのくらい気を失って居たのかは分からないがまだ気怠さが残っている身体を起こすと丁度部屋の主が戸を開けて入ってきた。 「おや?随分と早く起きましたね」 片袖が垂れないように支えながら消えそうな火鉢に炭を追加する。 「あの…ありがとうございます。」 「いえいえ、あのまま放ったらかしにしてしまったら夢見が悪かっただけですよ。」 零れた灯りが優しく顔を照らしている。片目は髪で隠れていて猛々しさは無く柔らかい絹のような人物だった。 「所で何故あのような場所に……?」 火鉢に炭を入れ終えた手で敷布団をトントンと叩きもう一度寝るように促される 「…それが…覚えがないんです。」 もう一度寝る気がないのにぐいぐいと押され渋々と布団をまた胸元までかける 「もしかして名前も思い出せないのでは?」 「…………。」 思い出そうとしても(かすみ)がかって思い出せない。 「あれだけ頭から出血していたのでまさかとは思いましたが…私の読みは当たったみたいですね」 頭を触ると確かに包帯が巻かれているようだ。 「あの、貴方と俺は…知り合いなんですか?」 その人物はゆっくりと目を細めて口元に笑顔を浮かべた 「いえ、貴方とは初顔ですね。」 「知らない人です」とあっけらかんと言うその人物を豆鉄砲を食らった鳩のような顔で見た。 実は知ってる人で彼は気を使わせないように言っているのかと思ったが「名前が無いと不便ですね……犬助とでも名付けましょうか」などと言っているため恐らく本当に知らない人なのだろう 「犬助はやめてくれないか?何だかふつうの名前では無い気がするんだ」 くすくすと上品に笑いながら五徳の上に置かれた鉄瓶の中の沸騰した湯を茶葉を入れた急須に注いだ 「申し遅れましたが私の事は良元(よしもと)とお呼びください」 少し冷ましながら湯呑みに茶を注ぎゆったりと飲み始める彼は恐らくずっと起きていたのではないかと思われる。 「その…良元さんは寝なくて大丈夫なのか?」 「えぇ、私が寝るのはいつも日の入りして二刻後ですからご安心下さい。 もし貴方が起きられた際に私が寝ていたら水がめの近くに朝食を置いておきますので食されてください。」 さぁさぁ早くお眠りなさいと言わんばかりにぽんぽんとあやされると、うつらうつらと瞼が重くなる。 ────眠りについた青年の年齢は20歳もいかない位だ、記憶が無いというのは本人が思っている以上に混乱しているだろうから寝かせる事で落ち着かせようと良元は考えていた。 (さて、困りましたね…) こんなにも血だらけで、『鬼』の香りを纏わせた青年を放ったらかしにしてはおけず、つい連れてきてしまったのと、目当ての『鬼』を逃してしまった事に頭を抱える (やっと見つけたと思ったのですが、やはり一筋縄にはいきませんでしたね…) 鬼はずる賢く足止めの為にこの青年に匂いをつけ怪我を負わせて逃げてしまった。 鬼に匂いを付けられた人間は鬼から狙われやすくなる上にあれだけの出血を放っておけば半刻で死に至ると判断し渋々良元は追うのをやめて彼を連れ帰ったのだ。 1度彼を連れて屋敷へ(おもむ)かねばならなくなったことに悩みながらもすやすやと眠る彼の傍にある文机に座り書類を書き始める。 逃した鬼の特徴や炙り出した経緯、そして青年を拾った経緯などをつらつらと書き留める。 どうせ屋敷へ連れて行ったとしても屋敷は彼を引き取ってはくれないだろう 記憶が戻るまでは雑用係として生活してもらう他ない、言葉は違和感なく返答していた所をみると過去の記憶のみ飛んでいるらしい (何故あんな夜中に出歩いて居たのかをお聞きしたかったのですが仕方がないですね…) ある程度書類を書き終わり自然と口が開き欠伸が出る、そろそろ朝食を用意しておいて寝るかと布団を見る (……まぁ……いいでしょう) くるまっている布団を少し取って自分も布団に潜り込むのだった。
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