黒坊主

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黒坊主

 まだ日付が変わる前で、雑居ビルから出れば繁華街は今から一日が始まるかのような活気に満ちている。  俺よりも少しだけ背の高いユウヒさんは、髪を雑にひとくくりにまとめると「行こうか」と一度振り返ってこっちに手を差し伸べてくる。  思わず手を差し出しかけてから、思いとどまって「子供じゃないんですから、迷子にはならないですって」というと、ユウヒさんは「確かに」と朗らかに笑って歩き出す。  大きな歩幅。身長はそんなに変わらないのに、多分ユウヒさんの方が足が長いからか歩幅が大きい気がする。  やや駆け足で、先をいくユウヒさんに追いついてから、二人並んで繁華街からどんどん離れていく。  ぽつぽつと世間話をしながら歩きながら、コンビニで寄り道をしてノートと筆記具と軽食を買ってユウヒさんの家へ向かう。 「いやあ、引っ越しが多いと金がどんどん飛んで行ってさ」  そんなことを言いながら辿り着いたのは、それなりに綺麗で大きそうなマンションだった。  だけど、なんだか建物全体がくすんで見える。夜だからというだけではなく、汚れているわけでもない。  見間違いかと目を擦ってみるけれど、視界の隅で黒い影が蠢いたような気がしただけで、建物に対する印象は変わらなかった。  立ち止まって何も言わない俺の腕を引っ張るようにして、ユウヒさんはオートロックを外してエントランスへ進んでいく。  口数が少なくなった俺を心配するなら、こんなヤバいところへ連れ込まないで欲しい。 「住んでて妙なことは起きたことないんだけどさ、仁史(ひとし)たちも大体一回来て、なんかキモいからもう来たくないって言うんだよな」  エレベーターの中で、ユウヒさんはぼそりとそんなことを漏らした。 「家に押し掛けてきそうって女は?」 「知らない子。っていうか女じゃなくて、実はでっかい坊主の男なんだけどさ、無言でずっと部屋の前にいるだけなんだけど、さすがに不気味で」 「は? そんなのに勝てるわけないじゃないですか」  女なら俺の身体中に入った刺青を見てびびってくれるかもしれないけれど……ユウヒさんがビビるようなデカい男には勝てそうもない。 「おれ一人なら無理だけど、二対一なら諦めてくれるかなって……」 「……もう。ここまで来たなら仕方ないですけど」  エレベーターが止まり、微かにガタガタと音を立てて扉が開く。  繁華街と違って、ここは住宅街だ。時間が時間だけに廊下はすっかり静まりかえっている。  先にエレベーターを降りたユウヒさんの背中を見ながら、妙なやつが今日はいませんようにと願って歩いていた。  しかし、曲がり角を曲がってからユウヒさんが足を止めたことで「居るんだな」と直感的にわかってしまう。  少し背伸びをして、ユウヒさんの肩越しにどんなやつがいるのか見ようとした。 「…………」  数メートルほど先のドア前いたのは、そこだけペンキで塗りつぶされたみたいな真っ黒な人の形をしたなにかだった。 「またいるよ」  呆れた様に溜め息を吐いて、ユウヒさんは小声でそんなことを漏らした。  またいるよ? そんな言葉で片付けられるのか?  見ているだけでぞわぞわと足下から寒気が込み上げてくる黒い人型をと対峙して、今にも叫び出したくなるのを堪えながら、俺はユウヒさんに耳打ちをした。   「ユウヒさん、あれがどう見えてるんです?」 「え? ひげ面のスキンヘッドのおっさんだけど」  思わず生唾を飲み込むと、黒い人型は僅かに動いて、こちらを向いた。  なぜこちらを向いたのかわかるのかというと……黒い人影の中に真っ白な歯と赤い舌がくっきりと浮かんでいたからだ。  魚を腐らせたみたいな匂いが急に漂ってきて思わず口を押さえる。  ずる……ずる……と濡れて重くなった布を引きずるような音がして、黒い影がこちらへ近付いてくる。  いつもは無言で佇んでいるらしい男が動いたのに驚いたのか、ユウヒさんも体を強ばらせている。 「ぁ゙……ぁ゙……あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙」  黒い影は声をあげながら近付いてくると、ユウヒさんの綺麗な顔に向かって両腕を伸ばしてきた。 「すいません」  吐き気を必死で耐えながら、両頬を挟まれそうになっても動こうとしないユウヒさんを突き飛ばす。  ぬちゃりとどろどろしたものが俺の頬に当たり、顔をがっしりと掴まれたのがわかった。生臭い匂いが一気に強くなって、真っ黒なペンキで塗りたくられたような空間に浮かんだ口が息の掛かるような距離まで近付いて来た。  ずぞぞぞぞぞぞと鼻水を啜るような音と共に黒い影が息を吸い込み、ユウヒさんが後ろで「離せ」と叫んでいるような気がした。  力が抜けて、やけに眠くなってくる。ユウヒさんが大声を上げているけれど周りの住人は出てくる気配もない。  ずぞ……ずぞぞぞぞ……ぞぞぞぞ……と耳障りな音が体の内側全てで響いて、頭が割れそうなくらい痛い。  そんなとき、ふとマダラの言葉を思い出した。 「しずかに」  ユウヒさんの腕が、俺の肩をグイッと掴んで、もう片方の腕が黒い影の胸元に当たって、俺はやっとキモいものから開放される。  生臭い匂いと頬にさっきまであったぐちゃっとした腐った魚を押し付けられていたような感覚が残っている。  胃の中身が逆流してくるのを無理矢理抑え込んでから、俺は言葉を続けた。 「静かに、しろ……!」  この場に居ないはずなのに耳元で「いいよぉ」とマダラが囁いたような気がした次の瞬間、どこからか来たブチ模様の犬みたいたものが、黒い影の喉笛に噛みついた。  ユウヒさんが倒れそうになった俺を受け止めてくれて、顔を覗き込んでいる。死なずに済んだ……と、ほっとしたからか、急に意識が遠いて、目が開けていられなくなる。 「(こう)……大丈夫か?」 「うえ……しばらく魚は食えそうにないっす」  目を開くと、すぐ近くにユウヒさんの綺麗な顔があって思わず息を飲む。  それからすぐに、あの黒い影のことを思い出して気持ち悪くなりながら、俺はなんとかユウヒさんに言葉を返す。  黒い影と揉み合ってからシャワーも浴びてないからか、ユウヒさんの綺麗な髪は珍しく乱れてるなとか、よくわからないけど犬が来て助かったなとか、良い匂いがするとか、なんで俺の隣でこの人は横になってるんだとか色々考えながら、ほっとしたように笑ったユウヒさんの頬に手を伸ばした。 「ユウヒさん、引っ越しましょう」  視界の隅で、まだ小さな黒い靄が蠢いている気がする。  きっと、ここにいたらこの人はまたああいう目に遭うような気がするし、そうじゃなくても厄介な女がここに突撃して来るだろう。  多分だけど、この人は良くない物を引き寄せる体質なんだろうってのは、今までの付き合いであったことと、今日のことでよくわかった。  マダラが言っていた「魔は美しいものを好む」ってのもそういう意味なんだろう。 「は?」  ゆっくりと目を見開いたユウヒさんが、気まずそうに目を泳がせて、髪をかきあげる。 「あんなのが出た場所にまだいるつもりですか」  どうやってあの黒い影から逃げたのかは後から聞くとして、過去に仁史(ひとし)さんが来なくなったことや、マダラの言っていた「事故物件」が本当のことなら、ただですらああいうものを引き寄せやすいこの人が、ここに居るのは良くないはずだ。   「いや、だから……金がないって……。それにおれ、(こう)にタトゥー彫って欲しいし、墨代も貯めたいから……」 「俺のところに住めばいいじゃないですか。ユウヒさんが俺のコト嫌じゃなければですけど」 「え……? なんで? いやありがたいけど、その」  勢い余って出てしまった言葉に、ユウヒさんは戸惑ったように眉尻を下げながら、逸らしていた視線をこちらへ向けた。 「……放っておけないんすよ。ユウヒさんのこと」  しまった。ユウヒさんはノンケだし、俺からそんなこと言われても気持ち悪いか?  いや、でも男が好きでもないなら下心なんて気が付かずに、ルームシェアの提案だって受け取ってくれるかもしれない。 「……なあ、(こう)」 「はい」  焦って今度は俺が視線を泳がせる。  断られたらどうしよう。そう思っていると、やけに優しくて柔らかな口調でユウヒさんが俺の名を呼んだ。 「両想いってことでいいか?」 「はい?」 「おれ、(こう)のこと好きだよ」 「は?」  パッと顔を上げると、ユウヒさんは薄い唇の両端を持ち上げて、いたずらっぽく微笑んだ。  そのまま、腕を伸ばしてきて俺の頬を手で挟む。 「こういうこと」  綺麗な顔が近付いて来て反射的に目を閉じると、唇に柔らかな感触が触れる。  目を開くと、さっきと変わらない顔でユウヒさんが微笑んでいる。 「……はい。ええと……よろしくっす」 「ああー。ってことは、初めての男に初めての刺青を入れて貰うことになるのか……お互いの名前でも彫る?」  どきどきしすぎて顔から火が出るんじゃないかって内心落ち着かない俺を抱きすくめながら、ユウヒさんはそんなことを言い出した。 「俺の名前をユウヒさんの体に彫るのはどうかと思うんですけど」  ここまで言って、魔除けになるといわれた花を思い出す。  あいつの言うとおりにするのは癪に障るが、そっちの道の専門家だ。言うことに間違いはないだろう。 「まあ、魔除けになるかもしれないから……俺の名前が入ってる花でも彫りましょうか」  マダラからの提案ってことは伏せて、俺はユウヒさんにそう提案してみると、うれしそうに首を縦に振る。 「河骨って花です。代わりに俺はユウヒさんが好きなものを自分の体に彫るんで」  幸せな気持ちになりながら、ユウヒさんの腕の中で深呼吸をする。ウッド系の香水の香りとアルコールが混ざったような匂いがして、どきどきが止まらないけれど、これは夢じゃないと自分に言い聞かせて、もう一度、すぐ近くにあるユウヒさんの顔を見上げた。  俺の視線に気が付いたのか、ニコニコしたままのユウヒさんが、何かに思いついたように口を開いた。  「あのさ、墨を入れるのと、お前のモノをケツに入れるのとどっちが痛い?」 「怖がらなくても、どっちも優しくしますよ」  少し不安そうな表情を浮かべるユウヒさんに思わずそう返して、俺は体をわずかに伸ばしてユウヒさんの唇に自分から触れた。
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