良き人生を

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良き人生を

 このぬくもりが、この力強さが、この世界から名残も残さずに消えてしまうなんて……そんなの信じたくなかった。 「しるし、つけてよ。良、良……」  でも良は、なにもしなかった。 「ごめん……真奈、ごめんな……」  繰り返し私の名前を呼んで、抱きしめるだけだった。淡い色の花びらが舞うなか、ただ、ただ抱きしめてくれた。  それが、良と交わした最期の言葉になった。  良が遺したノートには、いろんな人の名前があった。  良のお父さん、お母さん、お兄さん……クラス全員の名前も、学校の先生の名前も。  もちろん私の名前も。  ひとつひとつの名前のあとには、こう書かれてある。 『良き人生を』  あの頃の私は、人生がいやになっていた。体に悪い食べ物をいっぱい食べて、病気になろうと計画したこともあった。それくらいの病なら、病院で注射すればすぐ治るのに。  私は自分が幸せな人間だって全くわからなかった。  私の命を半分こできたらよかったね。でもそんなことしたら、良は怒ったよね。  良。  この世界はね、やっぱりうんざりすることが起こるよ。でもね、それと同じくらい素敵なことがちゃんとある。  良が神様を殴ったから、ましになったのかもしれない。  夜、同窓会からの帰り道。私は通っていた高校に向かった。  舞い散る桜を見上げ、ひとり歩く。あのときの桜を見つけた。背が伸びて、幹が少し太くなっていた。  あなたと言葉を交わした最期の日。  あの日も桜たちは、いまにも泣き出さんばかりに花びらを散らしていた。  私はあれから、いろんな街でいろんな場所で、散りゆく桜を幾度も見た。  私、まだ桜を好きになれないよ。  あのとき抱きしめてくれた、あなたのあたたかさを思い出してしまうから。  なにもしなかったのが、あなたなりのやさしさだとわかっている。けれど、跡が残るくらいのしるしが欲しかった。  良。  私の良き人生が終わるとき。  永遠のひかりのなかで、私を抱きしめて。  私がどんなおばあちゃんになっても、しっかり抱きしめて。  あなたの腕のなかで伝えたい。  晴れ間の虹。初雪のきらめき。人々の笑い声。そして花吹雪。  私が見つけた、あなたに見せたかったたくさんの景色を伝えたい。  その日まで、私は歩いていくよ。  長い長いときを、歩いていくよ。  良が生きたかった、この世界を。  桜の木々が月に照らされている。  花びらが、夜風に吹かれて静かに舞っている。若い桜も大木の桜も花盛りを迎えている。 ……どの桜も力の限り、咲いている。
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