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急転直下、真っ逆さま。下草に覆われた急な斜面を勢いよく転がり落ちる。水筒が水を撒き散らしながらどこかへ飛んでいった。突き出た枝が顔や腕を切りつける。咄嗟に頭を抱えこむ。山道が凄まじいスピードで遠ざかるのを視界の端にとらえた。
しばらく転がった後、俺の体は平らな地面に投げ出された。
「くそ……」
呻きながらよろよろと立ち上がる。節々が痛むが、骨は折れていなさそうだ。髪に葉や小枝がまとわりつき、頭を振るとパラパラと落ちてきた。
何度か瞬いて、周囲を見回す。
そうして息を呑んだ。
そこは水場のようだった。四囲を斜面に囲まれた窪地で、天に伸びる木々の葉の隙間から、黄金色の光が静かに射す。奥にはこんこんと清水の湧く泉があった。
——その泉のかたわらに、とうに風化した人間の亡骸が座り込んでいた。
風が吹いて、さらさらと葉を揺らしていく。秘密を囁くみたいな音がした。
ドッ、と心臓が波打つ。目の前に、父の手記が蘇った。几帳面な父の、端正な文字。そこにはこう書かれていた。
〈かつて龍と心を通わせた巫女がいた。巫女は言葉が通じずとも龍に寄り添い、やがて龍とともに山へ消えたという〉
吐き出す息が震える。馬鹿言え、と自分を叱咤する。こんなの、遭難者の遺体に決まっている。
でも、と、眼前の景色がそれを裏切る。亡骸の服はほとんど劣化しているが、ところどころ残った切れ端の染色は鮮やかだ。頭に巻きつく冠には色とりどりの輝石が飾られ、手足首には金の環がいくつも嵌まっている。明らかに登山者の格好ではない。その装飾は確かに——巫女というにふさわしい壮麗さだ。
ふら、と一歩足を踏み出す。亡骸に歩み寄り、恐る恐る手を伸ばす。
そのとき、辺りの風が激しく渦巻いた。雷鳴のような音が響く。ハッと上向くと、木々の向こう、青空を背景に白銀の鱗がきらめいた。
龍だ。
気づいたときには、地上最後の龍が、俺の目の前にいた。でかい。その体はこの窪地には収まりきらず、頭部だけを泉に突っ込んで水を飲んでいる。俺の身長くらいある金の瞳がこちらへ向けられる。その真ん中にある紺の瞳孔が、キュッと窄められた。
震えが足から立ち上る。
俺は窪地から逃げ出した。
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