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太陽が中天に上る頃。俺は洞窟を抜け出し、斜面を這って窪地へ向かった。龍の気配は遠い。なるべく巫女には近寄らず、泉の近辺を調査する予定だった。
しばらく降り続いていた雨は止み、空は青く澄み渡っている。泉の水面に日差しが反射して、きらきらと輝いていた。
試験管に泉から水を汲んで、試薬を垂らす。特筆すべき反応はなし。極めて純度の高い真水。
それから中腰になって窪地をぐるりと回る。特に目につくものはない。乾いた地面のところどころに、尖った葉の下草が生えているだけだ。
俺は背筋を伸ばし、深く息を吐いた。これで調査していないのは一箇所だけ。巫女の虚な眼窩が、俺を見ている気がした。背中の産毛がぴりぴりと逆立つ。
地上最後の龍は、やはり——。
そこまで考えたところで、背後からぼたぼたぼたっ……という水音がした。
眉をひそめる。ここには雨は降らないはず。首を傾げながら振り返ったとき。
妙に鉄くさい臭いが鼻をついた。地面に真っ赤な液体が広がっている、と視認すると同時に、どう、と黒い影が落ちてくる。
龍だった。だが様子がおかしい。ぐったりしている。視線を巡らせると、鉤爪の根元の肉が深く抉れていて、そこから血がぼたぼたと落ちているのがわかった。
「おい……おい!」
俺の狼狽えた声に、龍が煩わしげに身を揺する。だが、かつて俺を追い出した迫力はない。ただ傷口が広がって、血溜まりが大きくなるばかりだ。
父の声が、耳の奥に蘇る。
『龍は頑丈な鱗に覆われていて、滅多に怪我なんかしない。でも、生きている限り傷を負うこともあるだろう。そういうときのためにいくつか調合を考えたんだ。まあ、試したわけではないから、全部父さんの想像だけどな』
照れくさそうに緩む口元、目尻に寄った笑い皺。何もかもがいやにはっきり思い浮かぶ。そんな話、手記には残っていなかった。空想だから、研究成果ではない、と。
ああ、あのとき、父はなんと言ったのだったか。
血のにおいがどんどん濃くなる。血溜まりは俺の足元にまで拡大して、靴の爪先を赤黒く汚した。龍は目を閉じて、荒い息を吐いている。
弱っている。
咄嗟に徽章を握りこんだ。冷たい感覚が手のひらに突き刺さる。
今はとてつもないチャンスだ。龍を捕えるなら今しかない。早く軍部に連絡して、応援をよこしてもらおう。それが俺の任務だ。違えればきっと殺される。父のように呆気なく。俺はそれが嫌だから、ふさわしくもないのにこんな研究をしていたんじゃないのか。早く龍を捕えて、そして。
そして——。
徽章を握る手が震える。ハ、ハ、と獣のような息遣いが漏れる。喉の奥に酸っぱいものがこみ上げた。
限界まで目を見開いて、龍と巫女を見比べる。巫女は相変わらず泉のそばにいて、龍は血まみれになって身を横たえている。俺には何もわからない。こいつらが何を望んでいるかなんて、一つも。
俺が知っているのは、地上最後の龍が、夜の底で巫女と身を寄せ合っていたことだけ。
ただその事実は、少なくとも確かに俺の前に存在していた。
くらり、と目眩がする。徽章を握りしめたまま、もう片方の手で顔を覆う。
歯を食いしばる。呻き声を殺す。
ああ、そうだ。父が言っていた薬の種類は——。
耳元で、父の声が朗々と薬草の名を唱える。
あるいはそれは、窪地を渡る風の音だったのかもしれない。
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