忘れて、忘れられて

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*** 「俺さ、もうすぐいなくなるんだよね」 「はいはい」  いつもの冗談だと思って私は受け流した。 「なんだよ。冷てえなあ」  彼が新しい煙草に火をつける。どうやら本当にハマったらしい。 「就職は決まったのか?」 「一応」  私の就職が決まる頃にはもう夏になっていた。暑くてスーツを着るのが嫌だったが、最初に受けた会社が合格したのは幸いだった。 「役者か?アイドルか?」 「どっちでもない」 「なんだよ」  私も取り出した煙草に火をつけた。 「やめとけ」  その手を彼が止める。 「あれだけ副流煙まき散らしておいてあれだけど、いいことねえって」 「私は今が良ければそれでいいから」  彼の手を振り払って煙を肺に取り込む。  自分が傷ついた時、自分から血が流れた時に生きていることを実感する。そう考えなければいけない人だってたくさんいる。私だってそれに近づいているのかもしれない。煙草を吸って肺を毒していると少しだけ気持ちが収まる。 「その考えは改めろよ。いつかきっと後悔するぞ?」 「その時はその時にどうにかすればいい」  私は彼と違ってみんなに忘れられたい。みんなを忘れたい。覚えていた方がきっと後悔すると思うから。 「そっか」  二本目に伸ばそうとした手を彼が止め、私の手を掴んだまま彼が歩き出した。 「ちょっと、どこ行くの?」 「いいから」  風になびく白髪の混じった金髪、少し小さくなった背中、細くなった腕。そのどれをとっても少し前までの彼ではないと知る。さっきのように振り払えないほどの力が私の腕に伝わっていた。 「お、まだ消されてなかったか」  辿り着いたのはこの前の小さな教室だった。 「ほら」  大きく『幸せ』と書かれた黒板。この前まではその文字と彼の名前しか書かれていなかった。  それなのに、 「こんなに増えたか」    黒板を埋め尽くすほどの知らない名前があちこちに書き加えられていた。 「なにこれ?」 「さあ。知らねえ。いつの間にかこうなってた」  彼の文字に同調でもしたのか、あるいは悪ふざけか。どっちにしたって、彼の名前を誰もが記憶に刻み付けたのだ。 「お前の名前はまだないのか。心残りだな」 「何を言ってるの?」 「自分を犠牲にして得られるモノなんかに価値はない。お前も、見つけろよ?」  彼が笑ったのと同時にチャイムが終わりを告げる。 「じゃあな、ヒナタ」  その言葉を最後に淳平は私の前から消えた。それ以降、彼が私の前に現れることは一度もなかった。 「またね」  そう言わなかったことに、私は気付けなかった。
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