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彼はずっと桜の木の下で佇んでいた。誰も彼に視線を向けず、桜の花を見上げていた。花が散ると桜の木に目を向けることさえなかった。
「お兄さんは疲れないの」
ずっと同じ場所にいるのは退屈だろうと思い、僕は家からチョコレートを持ってきた。クランチが入っていてサクサクとした食感が楽しい。チョコレートを差し出すと彼は嬉しそうに受け取って、袖の中に入れた。走ると落ちてしまいそうでドキドキするが、彼は穏やかで急いで走るような雰囲気を纏っている。
「疲れたと思ったことはないよ。これが生きている証拠だから」
「僕も生きているけど学校にも公演にも行くよ」
朝礼で立っているのでさえしんどいのに、毎日ここにいるのは大変だろう。彼は面白そうに笑って頭を撫でた。今度は桜の香りはせず、青臭いような緑が香ってきた。
「君はいい子だね」
「ありがとう」
何が褒められたのかは分からないが褒められた事実が嬉しくて、僕の分のチョコレートも彼にあげた。結局そのチョコレートがどうなったのかは今でも分からない。彼が人間ではないことはこの時点で分かっていた。
「お兄さんは幽霊なの?」
学校で怪談を聞いた帰りに一人で桜の木を訪れた。触れることができない幽霊の存在を知った時、僕は彼を思い浮かべたのだ。母には見えなかった存在は幽霊だったのではないかと仮説をたてた。怪談にはおびえながらも、此処を訪ねることに恐怖を感じなかったのは、美しく、はかなげな彼に心を許してしまっていたからだろう。
「幽霊じゃないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「よかった」
安心して肩の力を抜くと、彼は不思議そうに僕を見つめている。
「よかったの?」
「うん。幽霊はみんなに嫌われているの。お兄さんが嫌われてなくてよかった」
人に悪戯をする幽霊は怖がられている。「はやく帰らないとテケテケがくるよ」なんて言って先生は僕らを学校から帰らせようとしたこともあった。もし彼が幽霊だったなら、僕はここから遠ざけられてしまうかもしれない。
「ふふふ、本当に君はいい子だね」
そして彼はまた僕の頭をなでた。木の香りがふわりと広がる。不思議な服装をした彼は何かあると僕を褒めた。褒められるよりも褒める方が好きみたいで、僕が褒め返すと眉に皺をよせて悲しそうな顔をする。
冷たい風が身体にあたり身を縮こませた。暗く陰ってきている。
「もうこんな時間だよ。君はお帰り」
「いつもと変わらないのに。もう暗くなっちゃった」
離れがたくて、僕は幹に抱き着いた。落ち着く香りを深く吸った。
「もう冬が近づいてきたからね。冬が終わると春になる……。また綺麗な姿を君に魅せるからね」
「お兄さんはいつでも綺麗だよ」
「ふふふ、今の私を褒めるのは君だけだ。本当に君はいい子だね」
ほら、彼はまた僕を甘やかした。
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