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明晰夢のはじまり
最初、それに気づいたのは一ヶ月前だった。
初めての時も、爺の痰を見た時に夢だと自覚した。正確には「夢かもしれない」と疑った。
自転車の進まなさ、風のない世界、明らかに挙動がおかしい見知らぬ爺。これらの情報をつなぎ合わせてもなお、睡眠中に自分の脳が作り出しているとは思えないほどの現実感があった。
私は自分のほっぺたをつねってみた。痛いような気もするし、痛くないような気もする。夢なのかどうかふわふわと判別せず、不安の色が胸に広がり始めた。
今思えばどうかしていたと思うのだが、目の前で痰を吐き出して、どこか誇らしげに突っ立っている爺の顎を思いっきり殴った。
夢かどうかを痛みで証明できるというのなら、私ではなく他の人間に痛みを与え、どう反応するのかを見ればいいという判断に至ったのだ。
夢の中で脳が寝ている状態だったということをさし引いても、やはりどうかしている。
爺の顔はぐにゃりと曲がり、植え込みに向かって飛ぶようにして体ごと倒れこむ。
放物線を描きながら、朝日を反射することなく、爺の口から黒い最後の一本の歯が飛んでいく。黒い歯は自然法則にのっとり下降線をたどるかと思われたが、空中でトランポリンに弾んだかのように跳ねた。三度ほど弾むと宙に留まりながら回転をはじめ、きーんと高い音を立てはじめた。
植え込みに頭から突っ込んでいた爺は、その姿勢のまま体が糸に吊られたように浮き上がり、少しずつ高速回転する歯に近づいていく。
爺の黒く伸びた足の爪が歯に触れる。
するとハムスターがキャベツを咀嚼するときのような、もしゃもしゃとした音が響き、爺が足先から消えていく。
歯茎を見せながら「むほほほほっほ」と爺が笑う。爺の毛一本ない潔い頭が消えていくのを見送って確信する。
「これ夢やんか」
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