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その山のトンネルには三つの約束事がある。
一つ、立ち止まらないこと。
一つ、声を出さないこと。
一つ、月を登らせて出入りしないこと。
その三つ全て守らなければ躯交(クマ)様が腹を食い破る。
……という話だ。
いかにも恐ろしい田舎伝説だが、トンネルにまつわる噂はそれだけに留まらない。曰く、「できた、できた」と耳元で囁かれることがあるとか、四十周したら死ぬだとか。それら散見した噂話の中心に、”躯交(クマ)様”が座していると推察するのはさほど難しいことではないだろう。
その躯交(クマ)様というのが、果たしてどんなものか。是非ともこの目で確かめてやろう……と言いたいところだが。どうやら無理らしい。
いくつかある動画サイトの投稿者達は老若男女問わず月が登る時間帯に行っても何も起きずに帰っているからだ。
オカルトが大好きな僕は、同じ趣味を持つ彼女と一緒に件のトンネルに居た。
単なる肝試しなら同じ県にあるO池の方がよほど雰囲気ある。だが僕と彼女にはそんな度胸はない。比較的簡単に行けるM峠のトンネルへ行くことにしたのたった。
時間は午前零時を回ったところ。
『安全第一』の全が消えかかっている崩れかけの看板がトンネル入り口に寄りかかっていた。
僕は彼女をからかいながら、トンネルの中へ足を運ぼうとする。
彼女は少し強張った笑顔を見せながら、僕の左手を両手で握った。
彼女の手の中に閉じ込められた温もりとトンネルの中に閉じ込められた冷ややかさを感じながら、中へ入って行く。
右足を地面につけるとコツ、と無機質な灰色の肌を通じて音が外を探す。
左足を地面につけるとコツ、と温かみのある色をした光の輪に影が通る。
それを規則正しく繰り返す。
七二〇メートルを歩き切るためにその作業を繰り返す。
一つ、立ち止まらないこと。
一つ、声を出さないこと。
そうこうしていると遂にトンネルの出口まで足を進めることが出来た。
トンネルの外から見える月明りは折り返しを示しているだけでこれから戻らなければならない。
僕は禁忌を破らずにいた彼女の髪を右手で撫で、唇を重ねた。
唇を離すと彼女の二枚貝から白い物が顔を見せた。
更に彼女は顔を僕の胸に埋めて鼻を動かした。
さて、時間を確認すると分針が『1』を示したところであった。
なんとあっけないんだろう。僕は拍子抜けの感を覚えたが、彼女の方は左腕を軽く引っ張った。
では来た道を戻ることにしよう。
右足を地面につけるとコツ、と月からの温かみが遠ざかっていく。
左足を地面につけるとコツ、と穴からの冷ややかさが近づいていく。
それを順序良く繰り返す。
七二〇メートルを越えるためにその作業を繰り返す。
……はずだった。
僕らはその音を出すだけで、無機質な光景が流れていくだけで、何も変わらない。一向に変わらない。
一つ、立ち止まらないこと――立ち止まってないのに。
一つ、声を出さないこと――一言も発してないのに。
彼女が僕を見た。眉毛は吊り下がり、鼻が閉じたり開いたりを繰り返している。お気に入りの色に染めた二枚貝の中に秘めた、白く綺麗に並べたものが見えそうになる。
そんな彼女の顔を僕の胸に埋めさせて、右手で震える肩を支えた。
「……た」
何かが耳元を掠めた気がした。
「……き」
まただ、今度ので胸に冷たさを感じた。
「……で」
掠めた程度ではあるが聞こえる。やはり、『それ』が聞こえる。
「……でき……で……きた……でき……」
コツコツコツコツ、と自然に僕らは足の回転を速める。それと共に肺と心臓の循環も比例していった。
僕らは肺が破れようが、心臓が止まろうが、脳が焼き切れようが、足を止めなかった。
胸の冷たさと染み込んだ水たまりが大きくなっていく。
『それ』とは別に彼女の喉から鼻を通して溢れ出ているのが聞こえる。
足どころか腰にまで疲れが出てきた。
膝が今にも地面をつけそうで僕の右手が彼女の肩に食い込んでいく。
彼女の両手の爪が僕の左手を突き刺していく。
「できた……できた……できた……」
掠めるどころかもう鼓膜を越え、頭に直接入っていくように『それ』が来る。
もう彼女が限界のようで歩くのではなく、僕に引きずられるようになっていた。
しかし、立ち止まったらいけない。その一心で僕は彼女の足に合わせて、歩みを進める。
彼女もなんとか僕に合わせようと、震える足に精一杯の力を込めていた。
「できた、できた、できた」
最早、周りに『それ』がいるようだった。僕と彼女は鼻どころか口からも息が漏れ、いや、漏れるというものじゃない。吐息と言うには荒々しく、肺に酸素と二酸化炭素をピストンで無理矢理循環させているようであった。
汗が体中の穴から噴き出ているのが分かるぐらい流れ、溢れ出る涙が頬を伝い、口から垂れる唾液が地面へ落ちていく。
もう立ち止まりたい、声を出したい。そんな思いが続くのと比例するように出口が遠のいていく。
道半ばで心が折れそうだった。いや、もう折れていたのかもしれない。先程まで規則正しく乾いた音がコツ……コッ、コツというようななんとも気の弱く締まりのない音になっていた。
しかし、彼女の顔を見たい、声も体の温もりも与えたい。そんな一心で僕は彼女と共に歩いた。
灯りが僕らを遠ざけているようで、風が僕らを拒んでいるようで、そんなトンネルの中を歩く……歩く……歩く。
大丈夫、僕らなら出来る……出来る……出来る。出来る、出来る、出来る。
「できたできたできた」
……どのくらい歩いたか分からないぐらい時間が過ぎた。
『安全第一』の全が消えかかっている看板がある口まで辿り着いた。
お互いを絡めていたものが解かれ、全身びっしょりだった。
彼女はその場でへたり込んだ。スカートから露わになっている両太腿に、滴が滴り落ちている。
僕のズボンもすっかり濡れて、下着で覆われたものの形に合わせてピッタリ張り付いていた。
僕は彼女の顔を見た。眉毛が吊り下がり、口をガチガチと鳴らしながら、鼻を濡らしていた。
そんな彼女が愛おしく思い、唇を重ねた。最初は震えて、唇の焦点が合っていなかったが次第に調節されていく。
……そんな夜のことを思い出しながら書いています。
以上が僕の体験談です。拙い文章で申し訳ありませんが読んでいただきありがとうございました。
そして、余談? と言いますか、蛇足的ですが田舎伝説に書いていた通りのことは多々ありましたが大袈裟な話でした。
更に更に蛇足ですが僕は彼女との間に子宝が恵まれたため、すぐに入籍し、新たな家庭を作り上げようとしています。
彼女は「そんなこともあったね」と言って、はにかんだ笑顔を見せ、宿した命を包んだお腹を撫でました。
こんなオチを付け加えてしまうと、体験談の雰囲気が壊れるかなとも思いましたが彼女のお腹の中に新しい命を宿したのはその日帰ってからシャワーを浴びてから、二人だけの時間を過ごすことが出来たからだと思います。なので、思い切って書きました。
管理人さん、不適切なら削除して下さい。すみません。そして、みなさん、暖かいコメントありがとうございます。
ついに昨日、産まれました。僕は父親になりました。まだ実感はないのですがやっぱり田舎伝説はあくまでも田舎伝説なんだな、と言うことを重々承知しておくことが大事かなと思い、ここに書きます。
僕は分娩室には入れなかったのですが義母が産まれる瞬間を動画で撮ってくれていたので見せたいと思います。
途中、義母が焦ってスマホを落とすのでビックリするかもしれません。ご注意ください。
以下が動画の内容である。
汗を顔中から吹き出している妊婦の周りで、看護師と医師が彼女に声をかけている。
所々、歯を噛み砕かんとするかの如く下顎に力が篭っていくが、それも彼らの声掛けによって弛んでいく。
撮影している義母と思われる方の手が震えているらしく、画面は小刻みに揺れている。
しかし、自分もかつて通った道だ。そんな風に言い聞かせているだろう。実の娘が母親になろうとしている瞬間を、懸命にレンズへ収めようとしていた。
やがて。けたたましく鳴る電子音。点滅する照明に合わせて、彼女は目をパチパチさせる。
瞬きが減り、とカッと眼球が今にも飛び出そうなぐらい見開く。
看護師や医師達もそれに合わせて慌ただしくなり、画面の揺れもそれに比例して激しくなった。
彼女の方に目をやると最初は強張り、首を小さく左右に揺らす。震えているようにも見えたが、徐々に徐々に止まる。
止まったと思えば、口が開く。何か言っているようだったが、周りの喧騒に遮られていく。
義母の我が子を呼ぶ声や、看護師の悲鳴に近い医師へ助けを乞う声や、医師の怒声に近い指示が飛び交う中で、彼女は小さく呟いている。
彼女の目がスマホを捉える。しかし、それを目と言うのは正しくないのかもしれない。
それは白い海に枝分かれしている赤い道が浮き出ていた。その中央には黒く輝く二つの光を灯していた。
それを見た義母の小さな悲鳴と共にベットと壁のタイルを写しながら床へ落ちていく。
ガシャ、と音を起てるとベットの足の向こう側を捉えながら、看護師や医師の足を写し始めた。
そして、彼女の声が止まったと思えば、今度はその音を越えるようなものが分娩室を響かせて、その動画は終わったのだった。
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