初恋

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初恋

 大学の敷地内にある200メートルほどのイチョウ並木。 見頃の季節はまだ先でも、青々と茂った葉がたくさんの日差しを受けて輝く姿は、これはこれで見応えがある。 そんな木々たちが作る陰の中を歩いていると、時折風に揺れてキラキラと光がこぼれてくる。 この風が春風であればよかったのに、と何度思ったことか。 実際に春風であった頃は、あっという間に過ぎ去ってしまった。 (あつ・・・暑い) まだ太陽が昇りきっていない午前、御影勇太はすでに参っていた。 心地よかった風がいつの間にやら熱風へと変わり始め、じんわりと浮かんでくる汗も手伝って、何かが削りとられていくようだった。 重い足取りで陰を進むと、それまで遠くに聞こえていた喧噪に追いついてしまった。 追いかけていたわけではないけれど、御影の歩幅よりもずっと狭く亀にも負けないくらいゆっくりと動くそのグループは、もはや歩いているのかさえ疑問だった。 突然ワッと噴き出すような笑い声に、思わず御影は跳ねた。 男女3人ずつ合計6人いる中には、見たことのある顔もあった。 同じ学部の人だとは思うけどそれだけだ。 仲が良いわけでもなければ、話をしたことがあるわけでもない。 賑やかで楽しそうなのはいいことだと思うけど、御影があまり得意としない空気。 きっと4年間で一度も接点を持つことはないであろうグループだ。 早々に追い抜かしてしまおうと大きく右に逸れようとして、何かが落ちた音がした。 自分かと思い足元を探しても何もなくて、少し視線を伸ばした先におそらく何かの鍵が落ちていた。 位置的にあの6人のうちの誰かが落としたことは明らかで。 気付いて立ち止まってしまったから無視は出来ない。 その鍵とにらめっこしながら、御影はしばらくどうしようかと悩んだ。 さっさと拾って声をかけてしまうのが一番手っ取り早いのだが。 (・・・話しかけたくない) 話が盛り上がっているようでさっきよりも賑やか、というか騒々しい。 そのせいできっと鍵を落としたことにも落とした音にも気付いていないのだろう。 学生課に届けに行くことも考えたけど、ここからでは少し距離があってそれはそれで面倒だった。 またしばらく考えて、御影は仕方ないという思いで息をこぼした。 その集団が進む速度は相変わらずで、ようやく鍵を拾った御影は少し広がった距離を駆け足で今度こそ追いかけた。 あの、と最初に出た声は沸き上がった笑い声にかき消された。 少しムッとして、二度目の声は力が入った。 「あのっ!」 何人かが気付いて立ち止まり、振り返る。 「鍵落としましたけど・・・」 先に日陰から抜け出ていた彼らに続くと思ったより日差しが強く、目を細めて視界が狭まった時だった。 「勇太・・・?」 その声は確かに御影の耳に届いた。 騒々しかった雰囲気は御影が割って入ったことによって、一時的に静かになっている。 そして、御影に注目が集まっていた。 しかし仮に面識があったとして、フルネームをたまたま覚えている人物がこの中にいたとしても、もう下の名前で呼び合うほど仲良くなった友達ができた覚えはなかった。 この6人に限らず、この大学中でだ。 「あ、それ俺のだ。なんで?」 差し出されているものに気付いて、一人が真っ直ぐに目の前までやってきた。 その男は御影の名前を呼んだような気がした声の主で、少なからず混乱していた御影は、一言答えるだけでやっとだった。 「落ちてました」 「全然気付かなかった。ありがとう」 御影の手から鍵を受け取った男は、満面の笑みでそう言った。 聞き間違いだったと流そうとしていた御影だが、自然と目が合ったその瞬間にとある古い記憶がフラッシュバックして、もうそうはいかなくなっていた。 声こそしっかり変声期を過ぎて記憶の中の彼とは違ってしまっているけれど、面影は残っている。 御影は、この人懐っこく笑う顔を知っていた。
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