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結局、一泊二日の旅行は雨の中に終わってしまった。新幹線を少し早い時間に取り直し、休暇の残りは家で過ごす事にしたのだ。
雨が止むのは七月が終わってからだなんて、思いもしなかった。
麓に下りて帰りのタクシーを待ちがてら、少しだけ温泉街を見て回った。雨に濡れた石畳と、黒っぽい長屋の雰囲気は独特で、ここに来なければ、そしてこの天気でなければ見られなかった。何店舗かだけだが、営業していたのは救いだった。
開いていた茶屋を見つけ、入り口から中を覗くと、七十代くらいのお婆さんの店員がいた。白髪を作務衣と同じ薄紅色のバンダナで巻いている。
「ごめんください。今、よろしいですか?」
銀ちゃんが声をかけると、すぐに返事があった。
「はい、やってますよー。こんな雨の中でねー」
小柄だが姿勢がよく、ハキハキとした喋り方だ。
軒下の、緋毛氈の敷かれたベンチに通される。人がよく座る位置の生地は毛羽立って薄くなり、ところどころ黒っぽい染みが付いていた。
店員が小さなバインダーを持って注文を取りにくる。
「じゃあ僕、抹茶と、この温泉饅頭、ひとつ」
僕が注文すると、銀ちゃんの方に顔を向けた。
「お父さんの方は?」
一瞬、微妙な間が流れる。けれど、それを察知させる前に、
「ああ、私も同じので」
銀ちゃんがにこやかに答えた。店員もにこやかに承知して店の中に戻って行った。
「…………」
僕は素っ気ない息子を演じて、店員にも銀ちゃんにも背中を向けている事しかできなかった。
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