桜、願う

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桜、願う

★  風が落ち着いてきた。肌に触れる空気がしっとりとして冷たく感じられる。眼前に手をかざして瞼を開くと、目に映る光景は一変していた。  桜並木の中にいるはずなのに、あたりの木々は季節の色を失っていた。無機質な褐色の幹だけが立ち並んでいる。さっきまで目に映っていた花弁や若葉はどこにも見当たらない。それに、いつのまにか淡い霧が立ちこめていた。身震いを覚えたのは、冷気を帯びた空気のせいだけではなかった。  パキッ……。  枝を折るような音が耳に届く。音の鳴った方に目を向けると人の姿があった。その人を視界で捉えた瞬間、僕の胸の鼓動が早まる。  ――咲良さん!?  見間違うはずもない、彼女の姿だ。咲良さんは作務衣を纏って脚立に乗り、桜の枝に手を伸ばしている。右手には小刀が握られていた。  左手で木の枝を保持し、右手の小刀を枝の先に添える。小刀と親指の腹で枝をはさんで腕をひねると、パキッ、と軽い音がして枝が切り取られる。摘んだ枝を足元に置いた竹籠の中におさめてゆく。一心不乱に作業を繰り返していた。  しばらくすると、脚立の位置を変えてさらに高い枝に手を伸ばした。けれど足元が不安定だったのか、一瞬、バランスを崩してよろける。 「あっ!」  思わず声をもらしてしまった。彼女は枝を掴んでバランスをとると、声のしたほう――つまり僕の顔を見た。  あわてて木の幹に姿を隠したけれど手遅れだった。咲良さんは脚立を降りてこちらに近づき、木の裏に隠れる僕の顔を覗き込む。上目遣いで睨まれて背中が冷たくなる。
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