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広々とした庭園のような敷地に桜が咲き誇る。枝に浮かぶ若葉は見頃の終わりを告げていた。
その奥に古民家のような平屋の建物があった。かつては栄えた染物屋だったはずだが、今は活気を失っていて、ぽつんとさみしそうに佇んでいる。
思えばそれも仕方がないことだと思う。なぜなら彼女はこの敷地にある一番大きな桜の木の下で絶え果てたからだ。
その木は庭の中央に堂々とそびえ立っていた。僕が両腕を伸ばして抱えても、半分も包み込むことができない大きな木だ。樹齢はおそらく数百年に及ぶだろう。
僕はその木の袂に立ち、頭上を見上げる。燦々とした木漏れ日が降り注ぐ。まるで彼女の抱いていた苦悩など素知らぬふりをした、まばゆい光だった。
ふと、どこからともなくささやくような声が聞こえた。
――ケテ。
――スケテ。
かすかな音なのに力強く、願いを込めたような声。辺りを見回すが、人の姿はない。
息を殺して聞き入ると、その声は次第に大きくなる。風が吹いてきて、桜の木々がさわさわ、さわさわと揺れだした。
突然、足元に落ちていた桜の花弁がいっせいに舞い上がる。頭上からも花弁が次々と降り注ぐ。驚いてあたりを見回すと、風が渦を巻き、僕の眼前に花弁のトンネルを作り出していた。
――、タスケテ!
その声は確かに、僕に語りかけていた。悲痛な叫びのようにも感じられた。
桜に誘われている、そう直感した僕は、無意識に花のトンネルの中に足を踏み入れていた。
すると意識がトンネルの中に吸い込まれるような感覚があった。我を忘れるほどの眩しい光が目の奥に差し込んできて思わず瞼を閉じた。
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