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四
「…………」
無言で、僕は膝をつき、荒い息を整える。
高橋老人の家は、確かに母親が言った通りになっていた。ブルーシートが貼られ、立ち入り禁止線が貼られているが、まだ工事は始まっていないようだった。
それから、弥五郎桜の木だ。
桜の大木は、根元から伐り倒されていた。
切り倒された後それほど日が経っていないように見えて、伐り倒した後の幹や枝は、切り分けられてその場に置かれていた。それに、まだ切り口の樹皮に近い部分には瑞々しさが残っている。だが、幹の内部は変色が進んでいて、一部は朽ちてきてもいた。
その時だった。
僕にまた、あの声が聞こえた。
「待ち侘びたぞ、俊哉」
「……弥五郎!」
僕は顔を上げ、それから叫ぶ。
そこにはあの、弥五郎がいた。
ちょうど、切り倒されて、さらに切れ込みが入れられた幹のところに。
以前と全く変わらない姿、だが、その像は透けていて、耳に届くその声も、まるで遠くから響いてくるようだった。
「明日になったらもう、どうなるかわからんぞ。たぶん、儂がおぬしと話せるのは、これで最後じゃな」
そう言って弥五郎は笑う。昔と全く変わらない笑顔で。
「……僕のせいなのか。お前がここにいるって言わなかったから。皆にお前を畏れさせようとしなかったから」
僕は、言葉を絞り出す。
「そう、悲観するでない。死んでしまえば、この身がどうなろうと、恐れることなど何もない。と言ってまだ生きてはおるが、これも寿命よ。それを見れば、おぬしにも分かろう」
そう言って弥五郎は指し示す、桜の幹の切り分けられた姿、そこに開いた洞を。
「もうずっと前から、儂は朽ち始めておった。一つ、おぬしに謝らんとならんかもしれんな」
「……何を!」
「桜は……染井吉野はな。実は、それほど寿命は長くない。この地を開墾した弥五郎も、郭として栄えていた頃のことも、伝え聞くでしか知らんのよ。空襲で死んだ女たちのことぐらいだな」
それから、弥五郎はまた笑う。
「おぬしの怖がる姿が見たくて、まるで遥かな昔からある古木のような振りをしておった。まあ、そんなところじゃ、儂の懺悔は」
それから、弥五郎の姿、その透けた像は僕に向かって手を伸ばす。
触れられない、視覚だけの姿だけで僕の頭を撫でながら、優しい声で弥五郎は呟くのだ。
「誰かから貰って、また誰かに渡していく。それが世の理よ。名前も、生命も。大事にするがよい、その身も、その心も」
それが、最後の言葉だった。
後には、切り倒された弥五郎桜の幹と切り株が、紅い血のような樹液を流した痕が、ルビーのような小さな塊を作っているだけだった。
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