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「…………」  無言で、僕は膝をつき、荒い息を整える。  高橋老人の家は、確かに母親が言った通りになっていた。ブルーシートが貼られ、立ち入り禁止線が貼られているが、まだ工事は始まっていないようだった。  それから、弥五郎桜の木だ。  桜の大木は、根元から伐り倒されていた。  切り倒された後それほど日が経っていないように見えて、伐り倒した後の幹や枝は、切り分けられてその場に置かれていた。それに、まだ切り口の樹皮に近い部分には瑞々しさが残っている。だが、幹の内部は変色が進んでいて、一部は朽ちてきてもいた。  その時だった。  僕にまた、あの声が聞こえた。 「待ち侘びたぞ、俊哉」 「……弥五郎!」  僕は顔を上げ、それから叫ぶ。  そこにはあの、弥五郎がいた。  ちょうど、切り倒されて、さらに切れ込みが入れられた幹のところに。  以前と全く変わらない姿、だが、その像は透けていて、耳に届くその声も、まるで遠くから響いてくるようだった。 「明日になったらもう、どうなるかわからんぞ。たぶん、(わし)がおぬしと話せるのは、これで最後じゃな」  そう言って弥五郎は笑う。昔と全く変わらない笑顔で。 「……僕のせいなのか。お前がここにいるって言わなかったから。皆にお前を畏れさせようとしなかったから」  僕は、言葉を絞り出す。 「そう、悲観するでない。死んでしまえば、この身がどうなろうと、恐れることなど何もない。と言ってまだ生きてはおるが、これも寿命よ。それを見れば、おぬしにも分かろう」  そう言って弥五郎は指し示す、桜の幹の切り分けられた姿、そこに開いた(うろ)を。 「もうずっと前から、(わし)は朽ち始めておった。一つ、おぬしに謝らんとならんかもしれんな」 「……何を!」 「桜は……染井吉野はな。実は、それほど寿命は長くない。この地を開墾した弥五郎も、(くるわ)として栄えていた頃のことも、伝え聞くでしか知らんのよ。空襲で死んだ女たちのことぐらいだな」  それから、弥五郎はまた笑う。 「おぬしの怖がる姿が見たくて、まるで遥かな昔からある古木のような振りをしておった。まあ、そんなところじゃ、(わし)の懺悔は」  それから、弥五郎の姿、その透けた像は僕に向かって手を伸ばす。  触れられない、視覚だけの姿だけで僕の頭を撫でながら、優しい声で弥五郎は呟くのだ。 「誰かから貰って、また誰かに渡していく。それが世の理よ。名前も、生命も。大事にするがよい、その身も、その心も」  それが、最後の言葉だった。  後には、切り倒された弥五郎桜の幹と切り株が、紅い血のような樹液を流した痕が、ルビーのような小さな塊を作っているだけだった。
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