ハルノウタ

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 桜は好かん。  特に桜の歌を歌って売れたようなアーティストは気に入らん。  春も好かん。  隣の課の同期がこの春、先に係長に昇任していった。  帰宅ラッシュの地下鉄は今日も混み合っている。座れないのはいつものことだが、少しでも居心地のいい場所を探して奥へと進む。通路を塞ぐ先客の合間を掻き分けると少し迷惑そうな顔をされた。知ったことではないが。  連結部分は少しだけ人の密度が低い。スーツのポケットからワイヤレスイヤホンを出して左耳に差し込む。歩いている間は片耳だけにしていたが、車内では両耳に差すことにしている。  左手でつり革を掴んで目を閉じる。ランダムで再生されるサブスクの最新リストの曲が脳内に響く。去年の誕生日に恋人からプレゼントされた国産メーカーのイヤホンのノイズキャンセリング機能は優秀で、世界の雑音からぽつりと自分を切り離してくれる。  右耳のイヤホンが少し緩んでいたのをぐっと押し込み直す。  音はいいのだがサイズ感は合わない。そこは少し気に入らない。その前に使っていた安物の海外製品は音の質はともかくサイズはぴったりだった。 (……だせぇ曲)  プレイリストが次の曲に切り替わった。数年前にデビューしたソロアーティストの曲だ。右手の人差し指を耳の横に上げる。ワイヤレスイヤホンを二回タップすれば次の曲に送れる。  それを迷っているうちに前奏が終わった。歌が始まる。春の歌だ。 (声はええよな。……相変わらず)  ふ、と苦く笑う。狭いライブハウスの決して良いとは言えない音響設備でもこの声には客を引きつける魅力があった。ソロデビューから数年、声の良さはさらに磨かれている。空から降り注ぐようなよく通る高音は甘く、それでいて透明感もある。  あの頃歌っていた喉を振り絞るようなロックより、こういう伸びやかなポップスの方が合っているとも思う。それはつまり、大人たちの判断が正しかったということなのだろう。  終わった話をやたらと思い出すのは今が春で、あちこちで桜が咲いているからだ。 『俺らのやってきたんとは全然方向性ちゃうやろ!?』  噛み付くように吠えた自分の声が爽やかなポップスで埋められた脳内に響く。それは過去の(こだま)だ。大手のレコード会社からの話に、自分は乗れなくてあいつは乗った。それだけの話だ。そうして自分は満員電車に揺られる日々を過ごし、あいつの歌はサブスクの上位に並んでいる。一緒についていったはずのドラムとキーボードがどうなったのかは知らない。それもよくある話だ。 『バンドやろうや。モテそうやろ?』  そう言ったのはまだ中学生だったあいつだった。動機の浅さとは裏腹に自分たちはどんどん音楽にのめり込んでいった。バカみたいに楽しかったし、バカみたいに夢中だった。大人たちがあいつに目をつけるまでは。  音楽に捧げた熱量は、最後にはお互いを傷つける燃料になった。言葉を選ぶ余裕もなく罵り合って、どうしようもないところまで決裂した。 (売れてるんならまあ良かったんかな)  薄っすらと目を開ける。地下鉄の窓の外は暗い。 「……ただいま」  玄関ドアをかけて習い性のように口にする。狭い玄関の下駄箱の上に見慣れないものが置かれていた。 「おかえりなさーい」  帰宅を聞きつけて短い廊下の向こうから出てきたのは同棲中の恋人だ。先に帰宅している時はいつもこうしてわざわざ出迎えにくる。 「ただいま」  ひょろりと背の高い相手を見上げながら答える。年下の恋人はもともと大きな口をさらに大きく開けて笑った。口の端から奥歯がのぞき、目が糸のように細まる。この顔を見るといつも黒のラブラドールを連想する。 「あれどしたん?」  下駄箱の上でジャムの空き瓶に挿された桜の枝を指差す。花は半分ほど咲いている。残りの半分は丸く膨らんだ蕾だ。 「折って取ってきたん?」 「そんなんせぇへんっすやん」  中途半端な敬語混じりの関西弁で、不服そうに恋人が答えた。面長の頬を心持ち膨らませている。 「カラスにもろたんですよ」 「カラス?」 「あの枝咥えて、塀の上に留まっとって。俺が通りかかったら飛んで逃げちゃったんですよ、桜落として」 「そんなことある?」  笑いながら靴を脱いで廊下に上がる。恋人の横をすりぬけて奥に向かう。大型犬のような恋人がすぐ後ろをついてくる。 「なんかええでしょ、カラスにもろた桜って」 「まあ……」 「桜あると華やぐしね」  嬉しそうな声が後ろから届く。ぴたりと足を止めた。真後ろをついてきていた恋人が、ぶつかる直前で「おっと」っと足を止める。くるりと振り向いて見上げると、恋人は不思議そうに小首を傾げた。その仕草も黒のラブラドールに似ている。 「桜好きなん?」 「桜嫌いなやつおらんでしょ」  素直な感性だ。  満員電車からここまでずっと、どこか苦しかった呼吸がふっと軽くなる。この素直な感性の傍でなら、自分は少しだけ肩の力を抜ける。 「そうかもしらんな」  だからあの歌は売れたのだ。大嫌いでありきたりのダサい桜の歌は。 「……俺もまた曲作ろかな」 「えっ」  不思議そうに見下ろしていた顔がパッと明るくなる。 「ほんまに?」 「なんでそんな嬉しそうなん」 「やって俺、聞いたことないもん。出()うた時には音楽やめちゃってたやん」 「ああ。せやな」 「俺に一番に聞かせてや?」  そのお願いには答えずに(きびす)を返す。奥へと歩みを再開させると「ねぇ!」と強請るような声が背中を追ってくる。 「どんなんがええやろな」 「桜の歌にしましょ!」 「ええ……ダサない?」 「ダサいとかないでしょ」 「考えとくわ」 「ちゃんと俺に一番に聞かせてや!?」  と、念押しの言葉が返る。その必死さにくつくつと肩を揺らして笑ってしまう。   お前以外、誰に聞かすねん。    
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