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 駅から出て通勤するサラリーマンやOLが歩を進める波に乗り、オフィス街を歩く。  妃奈子は白い雲が広がった空を見ながら、どうやって三崎瑛太郎に近づくか考えていた。  彼がコーヒーを飲みに休憩室に行くタイミングを合わせるのがベストだけれど、なぜかそのタイミングで先輩に話しかけられたり、上司から急ぎの仕事を頼まれたりして、都合よく席を立てないのだ。  働き始めて1ヶ月では自分のタイミングで動くのはまだ難しかいのかもしれない。変に浮かないように周りの状況を見て合わせることが優先だった。  周りを歩いているサラリーマンがいくつものビルへと順に吸い込まれていく。妃奈子は前を横切る人たちにぶつからないよう、人の動きを見て足を進める。  勤め先の会社が入ったオフィスビルの前にある花壇には昨日と変わらず可愛らしい花が咲いている。  自然と顔がほころんだ妃奈子はオフィスビルに足を向けようとしたところで、左肩に衝撃が走り、よろめいた。 誰かが左腕をつかんで、倒れないようにしてくれた。 「すみません。俺がぶつかったばっかりに」  低く耳なじみの良い声だった。  声のする方を見ると、同世代くらいの男性の顔が間近にあった。日本人にしては彫りの深い顔立ちの彼は、首元に光るゴールドのネックレス、白いシャツの胸元に差したサングラスという服装に似合わず、きまり悪そうな表情をしている。  こういう軽薄そうな服装をしている人とは関わり合いにならないのが得策だ。妃奈子は、体勢を立て直して自分の足で立った。 「大丈夫です。こちらこそよそ見していてすみませんでし……あっ」  彼は右手で妃奈子の腕をつかんでいて、左手には缶コーヒーが握られていた。その缶からはコーヒーがこぼれている。彼の左手はコーヒーまみれだ。慌ててバッグからハンカチを出した。  ハンカチを彼の左手にあてようとしたとき、妃奈子の腕をつかんでいた手を離した彼は、そのハンカチを奪い取った。 「俺の手より、君の服」  目を丸くした妃奈子は自分の服を見回した。白いブラウスの左肩から腕にかけて茶色くシミができている。そこへ彼がハンカチをあててきた。 「ごめん。クリーニング代出すよ。あ、でも、このままじゃ仕事いけないか」  話が続いてしまって、妃奈子はハンカチを出したことを後悔した。何とか話をきって、立ち去ろう。  シミ抜きするように押さえつける彼の手からハンカチを取った。 「会社のロッカーに、シャツの着替えは入れてあるから大丈夫です。クリーニング代も気にしないでください。私も不注意だったんですから」  できるだけシミを薄くしようと気を取られていると、また誰かにぶつかられた。周りを見回して、歩道の中央辺りで立ち止まっていることに気づいた。  出勤時のサラリーマンたちには、かなり邪魔になっているようだ。  同じように気づいたらしい彼が、妃奈子の手を取って花壇のそばへ誘導した。レンガ造りの花壇の淵に缶コーヒーを置いた彼はポケットから何か紙切れを出した。 「これ、俺の名詞。この大通りの向かいのビルの2階のバーでバーテンダーやってる。悪いけど、今日、仕事が終わったらクリーニング代、取りに来て」  キッカケを作っては初対面の女性をナンパしているタイプなのかもしれない。パーソナルスペースを軽く破ってくるタイプは男女問わず苦手だ。  無理やり押しつけられた名詞に目線を落とす。黒地の名詞には、白い文字で『Barペリエ店長兼バーテンダー 江沢陸人』と書いてあった。  妃奈子は、その名前に憶えがあった。 「江沢、陸人って。まさか、りっくん?」  顔を上げて丸くした目で陸人を見た。ニヒルに右側の口角を上げた表情が様になっている。 「そ、やっと気づいたか。妃奈」  中学時代の元彼と再会するとは思ってもいなかった。偶然なのだろうか。たしか、陸人は昨日の夕方もここにいたような気がする。  妃奈子は、腕を胸の前でたすき掛けのようにして、シミになった左肩にハンカチを当てなおした。陸人の切れ長の目が、その奥で光を放った気がした。 「名前見るまで気づかないって水くさいな。一応、元彼だぞ。まあ、いいや。とにかく仕事帰りにバーに来いよ」  妃奈子のシミができた肘あたりを軽く平手を打った陸人は、後ろ手に手を振りながら、サラリーマンたちの流れに逆流するように歩いていった。  会社が入ったビルの前で、妃奈子は立ち去る陸人の後姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
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