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時間を大幅にロスしてしまった。
妃奈子はビルに入るなり小走りでエレベータホールへ行き、ちょうど来たそれに乗り込んだ。
いつもより少し時間が遅いせいで、乗り合わせる人が少なかったのはせめてもの救いかもしれない。シミのついたブラウスを誰かにぶつけることはなさそうだ。
会社のある階でエレベーターを下り、廊下を左へ曲がる。突きあたりを右に曲がった右手が女子更衣室だ。
ドアを押し開ける。正面の窓の上にある時計は8時32分を指している。45分の始業には十分間に合いそうだ。
扉を閉めて、左へ折れ、1本ロッカーの列を通り越して、2本目の通路を入る。奥から4つ目のロッカーの前に立ち、『野原』と記されたロッカーの扉を開ける。白いブラウスを脱いで丸めて足元近くにある棚に置き、ハンガーにかけた水色のシャツを出して袖を通した。
ボタンを留めながらロッカーの内扉についている鏡に目をやると、緩くウエーブさせた髪を肩のあたりで指にくるくると巻き付けた亜未が近づいてきていた。
妃奈子はボタンを留め終えたシャツの裾を紺のスカートのウエスト部分に差し込み、キチンと着たことを鏡で確認する。勢いよく鼻で息を吐いてロッカーの扉を閉めて、間近まで来ているだろう亜未を振り返った。
「おはようございます。何か御用ですか。始業まではまだ少し時間がありますが」
亜未はなぜか妃奈子の頭の上から足の先までなめるようにみてきて、口をとがらせて首をかしげた。
「さっき、ビルの前で話してた男の人、知り合いなの? すっごく親しげだったけど」
今度は妃奈子が首を傾げた。
「ぶつかってコーヒーをこぼされたんです。たまたま昔の知り合いで驚きましたけど。それがどうかしましたか」
「ふうん、昔の知り合いね。なかなかのイケメンじゃない。次、会う予定とかないの」
気のせいか亜未の声が猫なで声に聞こえてくる。
亜未の仕事の大半が回ってくる妃奈子は、男のことばかり興味を持たないで仕事をしてよ、と心の中で毒づいてしまう。始業時間が近づいてるから、と適当にあしらおうとしたものの、思いとどまった。
亜未の機嫌をとれば瑛太郎に近づくキッカケが手に入るかもしれない。
床に置いていたハンドバッグを持ち上げ、そのポケットから陸人の名刺を取り出した。
「これ、その男性の名刺です。コーヒーをこぼしたお詫びにクリーニング代を出すからって、今日の仕事帰りに店に来てって言われてるんです。良かったら、一緒に行かれますか」
奪うように名刺を手に取った亜未は、口元に片手の握りこぶしをあて小首をかしげた。今どきアイドルでもしなさそうなぶりっこスマイルに、妃奈子は心が一メートルほど後ずさりした感じがした。
亜未は全く意に介していないらしい。
「行くわ。私のこと、きちんと紹介してね」
廊下を走る足音が聞こえる。
天井に近い位置の壁にかかった時計を見上げる。始業5分前だ。
妃奈子はロッカーを閉め、バッグを手に持つ。
「じゃあ、仕事が終わったら、このビルの玄関で」
「残業しないでよ。野原さん、仕事遅いんだから」
あんたが作業を押しつけてこなければ、あっさり定時で終われるんだよ。
思わず、妃奈子は心の中で悪態をついた。
先に歩き、更衣室を出ていく亜未の後姿を見て、疑問が浮かんだけれど、それは始業のベルにかき消されてしまった。
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